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高宗、 明成皇后殺害事件直後にロシアに宮廷守備を要請

高宗、 明成皇后殺害事件直後にロシアに宮廷守備を要請

Posted October. 29, 2015 07:19,   

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1895年の明成皇后殺害事件直後、身の危険を感じた高宗(コジョン)がロシアに宮廷守備兵の支援を要請した内容が書かれたロシアの資料が初めて確認された。

北東アジア歴史財団のキム・ヨンス研究員は31日、ソウル大学で開かれる全国歴史学大会で発表する予定の論文「駐韓ロシア公使ヴェーバーの資料で見た韓露関係と乙未事変」で、1903年、ロシアのカール・ヴェーバー特命全権公使が本国に報告した「1898年前後の韓国に関する報告書」を分析した。

同報告書によると、1895年11月19日、駐韓ロシア公使だったヴェーバーは、ロシアに電文を送り、高宗が宮廷守備兵の支援を要請したと知らせた。高宗は、ヴェーバーに支援要請が書かれた親書を渡した。

当時は日本が明成(ミョンソン)皇后を殺害して親日内閣を構成した直後で、高宗も身の危険を感じる一触即発の状況だった。キム研究員によると、ヴェーバーは朝鮮主宰の外交団会議が開かれた1895年10月25日、小村日本公使の面前で、「私が兵力50人を率いて軍部の代わりに趙羲淵(チョ・ヒヨン)を逮捕した後、(日本軍の支援を受ける)訓練隊の武装を解除させる」と迫った。ヴェーバーは2日後の27日、ロシア外務部から「貴官の判断の下、陰謀者の脅威から高宗を保護するためのあらゆる措置を承認する」と許可を受けた。

この資料によると、高宗の状況は悲惨だった。ヴェーバー公使の1903年の報告書は、「俄館播遷」当時「日本の歩哨が宮廷でも国王(高宗)を捕虜のように監視した」と伝えている。キム研究員は、高宗の宮廷守備兵支援要請に対して、「高宗が身の不安をロシアの軍事支援を通じて打開しようとした」と指摘した。ロシアはすぐに宮廷守備兵を派遣せず、翌年2月、高宗が貞洞(チョンドン)のロシア公使館に避難する俄館播遷につながる。

ヴェーバーの報告書には、俄館播遷初期の民心を知ることができる内容もある。報告書は、「俄館播遷の朝、大激変が起きた。多くの高官や数千人の韓国人がロシア公使館の区域内に押し寄せた」と伝えた。また、ロシア公使館があった貞洞の通りは、「君主に祝いを捧げるためにやって来た歓呼する百姓、軍隊、警察でいっぱいになった。祭りのようだった」と書いた。慌てた日本は怒れる群衆から日本人を守るために駐屯軍をソウル南方に集めた。乙未義兵が起きた当時、民衆の反日感情がどの程度だったか察することができる。



jjj@donga.com