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[東京小考]糾弾より妥協こそ政治の芸術

Posted June. 11, 2015 08:48,   

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韓国の国会は日本を糾弾するために存在しているのだろうか。日本を非難するのは珍しくないとはいえ、国交正常化50周年を翌月に控えた5月12日、激しい糾弾決議が同時に二つも可決されたのには驚いた。

 標的の一つは安倍晋三首相が4月末に米国議会で行った演説で、「侵略の歴史や慰安婦問題に反省がない」などが非難の理由だった。もう一つは世界文化遺産の登録が有力になった「明治日本の産業革命遺産」。そこには朝鮮半島出身者たちが強制労働させられた施設が含まれているではないか、という批判だった。

 韓国からすれば、それぞれ不満や不快感があるのは理解できる。だが、どちらも国会が「糾弾」するほどのことなのか。糾弾の弾とは弾劾の弾であり、弾丸の弾である。つまり弾で打ち抜くように相手の非や罪を責めるときに使う言葉であり、最も強い非難の表現だ。

私とて、安倍首相の演説には物足りなさを感じたが、あれは米国を相手に語ったものだし、「アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目を背けてはならない」とも語っていた。多くの米国議員はこれを歓迎し、大きな拍手で答えたのに、それを他国の国会が決議で非難するのは米国に対しても失礼ではないか。しかも、一国の総理を名指しで糾弾とは、まるで敵対国のやることだ。

 一方、日本の産業近代化の施設が世界遺産に近づいたとき、これを頭ごなしに糾弾されて、多くの日本人は弾丸を撃ち込まれた気分がした。もし韓国国会が冷静に日本の産業施設を評価しながら、同時に同胞たちの多大な苦難があったことを強調して、それを世界遺産の説明に加えるよう求めていたなら、多くの日本人も共感できたに違いない。

だが、どちらも容赦ない弾劾である。これでは、韓国に親しみをもつ日本人まで敵に回すようなものではないか。

さて、韓国の国会はなぜ、あんなに感情をむき出しにするのだろう。ふと思いだしたのは、ソウル大学日本研究所の朴迵煕所長が語った日韓の夫婦喧嘩比較論である。

日本人はたとえ仲が悪くても派手な夫婦喧嘩を決して他人に見せず、ある日静かに分かれる。だが、韓国人は人前でもかまわず大喧嘩するくせに、何かきっかけがあれば抱き合って、泣いて仲直りしたりする。韓国人が大声で喧嘩するのは愛情が残っているからで、関心がある証拠だから、そこを間違えないでほしいというのだ。

実は、この言葉はつい最近、私が日本で出版した韓国知識人との対話集「日韓の未来をつくる」(慶應義塾大学出版会)に出てくる。

そうか、だとするとこの国会決議も一種の愛情表現ということなのか。だが、人前で妻や夫に激しくなじられれば、たとえその場は我慢しても、深く根に持つのが日本人だ。ああいう糾弾決議は逆効果であることも、韓国の人には理解しておいてもらいたい。

しかも、韓国はといえば、従軍慰安婦の資料を世界記憶遺産に登録しようとしている。日本の恥部をわざわざ世界遺産に申請しようとは、この問題の解決を望む日本人の心中も穏やかではない。

さて、日韓は慰安婦にせよ世界遺産にせよ、もつれにもつれた糸をほぐすには、政治の知恵と決断が必要である。

そこで、上記の対話集からもう一つ紹介したいのは、高麗大学名誉教授の崔相龍氏の話である。かつて駐日米国大使として日韓交渉の妥結に裏で協力したライシャワー博士から「妥協とは何だと思うかね」と問われたことがあった。崔氏は”art to integration”(統合のための技術、あるいは芸術)だと答えたら大いに満足そだったという。

崔氏は後に金大中大統領の訪日に同行し、謝罪と和解を盛り込んだ日韓共同宣言づくりにかかわった。あれは和解の芸術品だったが、その崔氏も50年前に結ばれた日韓基本条約を、まさにあの時代、苦難の末に生まれた妥協の成果だと評価する。

「妥協」をさげすんではいけない。糾弾なら子供でもできるが、高い理想と厳しい現実の中から生まれる妥協こそ、政治の芸術だからである。

(若宮啓文 日本国際交流センター・シニアフェロー 前朝日新聞主筆)