Go to contents

[東京小考]国書の偽造劇が語るもの

Posted May. 14, 2015 09:12,   

한국어

36年前に日本で生まれたドキュメンタリー映画「江戸時代の朝鮮通信使」が、いま日韓両国で息を吹き返している。釜山に続いてソウルでも上映の動きがあるほか、東京では我が日本国際交流センターが企画。6月中旬には済州島で開かれる国交正常化50周年記念学術大会で日韓の一流学者らが鑑賞を検討中と聞く。

 朝鮮通信使とは徳川家康の要請に応じて17世紀初めから実現した朝鮮王朝の大型使節団で、200年の間に12回も日本に送られた。第一級の学者、文化人や芸能人らも大勢参加し、釜山から対馬を経て江戸まで1年近くかけて往復した行列は各地で大歓迎された。豊臣秀吉の侵略によって崩壊した両国の関係を修復したばかりか、多くの文化交流を生んだ意義は計り知れない。

 映画を作ったのは在日の研究者だった故・辛基秀氏だ。日本の各地に通信使の足跡を求め、貴重な遺物の数々や行列を描いた絵画を集めてフィルムに収めた。ほとんど忘れられていた日韓交流の歴史を現代によみがえらせる名作だった。

 これがいま脚光を浴びるのは、国交正常化から50年にあたり、朝鮮通信使を世界遺産にしようという日韓共同の運動が起きているためでもある。両国の外交関係がとげとげしい中で、明るい材料として見守りたい。

 さて、通信使は当時の対馬藩が江戸幕府と朝鮮王朝の間を仲介して始まったのだが、その実現にあたって演じられた驚くべき工作にも、私は興味をそそられる。日韓の研究者らによると、以下のような事実があった。

 通信使の派遣を要請したのは家康だったが、朝鮮王朝はこれに応じる条件として、秀吉の侵略を謝罪して使節の派遣を求める家康からの国書を求めた。しかし豊臣政権を倒した家康は、朝鮮侵略に無関係だったとの立場であり、これに応じる可能性はない。間に入って困った対馬藩は一計を案じ、朝鮮が望んだ通りの国書を偽造して届けたのだ。

 素早い対応に驚いた朝鮮王朝は国書の形式などを不審に思い、偽造ではないかと疑った。このため内部で相当な議論があったが、結局はことを荒立てずに使節の派遣を決断した。日本との間に平和を取り戻し、多くの捕虜を早く連れ帰るのが得策だと考えたからだ。

 こうして1607年に実現した第一回の通信使は国王からの国書を返書として持参したが、これを二代目将軍の秀忠が受け取れば、もとの国書偽造がばれてしまう。そこで通信使に同行した対馬藩の家臣がこの返書を偽物にすり替え、秀忠の疑いを招かぬ国書にしてしまった。これには内情を理解する朝鮮側の人間が絡んでいたという説もある。こうして両国の平和な時代が幕を開けた。

 ところが30年近くたって、国書の偽造が徳川政権にばれてしまった。対馬藩の重臣の裏切りによる内部告発があったのだ。時の藩主は江戸に呼ばれ、先代の藩主にかけられた疑惑を問いただされて「お家断絶」の危機に陥った。ところが将軍の家光(家康の孫)は藩主の責任を問わず、告発した重臣を流罪にした。こうして対馬藩が仲介する朝鮮との交流はそのまま続き、通信使も影響を受けなかった。何ともドラマチックな展開である。

 どうしてこんなことがまかり通ったのか。両国の貿易によって財政を維持してきた対馬藩にとって、両国の友好関係は自らの死活問題であり、国書の偽造は命がけの勝負だった。だが、よくよく考えた末にそれを外交問題にさせなかった両国の政権にも、優れた判断があったと言えるだろう。

それから約400年。大統領や総理大臣の発言がリアルタイムで相手に伝わる今日、こんな外交がまかり通るわけもない。だが、その余り、相手の言動の欠陥にばかり目を向ける風潮はいかがなものか。

情報の偽造は論外だが、少しは相手のよい部分や改善点に目を向けることも必要ではないか。自分が正しいと思うことを貫くだけが外交ではない。大きな国益のため、時に見て見ぬふりをし、相手に救いの手を差し伸べもした先人たちの知恵には、現代の外交が参考にすべき教えがあると言えまいか。

(若宮啓文 日本国際交流センター・シニアフェロー、元朝日新聞主筆)