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[若宮啓文の東京小考]鈴木・全斗煥の時代を思いだす

[若宮啓文の東京小考]鈴木・全斗煥の時代を思いだす

Posted April. 16, 2015 09:11,   

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かつて日本に鈴木善幸という首相がいた。11年前に他界したが、その夫人が最近亡くなり、自宅に弔問に行ってきた。1980年、大平正芳首相が心臓病で急死し、代わって首相になったのが鈴木氏である。若い政治記者だった私は毎日のように鈴木邸に通い、突然の権力継承ドラマを取材した。それが昨日のように思えて懐かしかった。

そう言えば、こんなことがあった。私がソウルに留学することになり、鈴木首相をあいさつに訪ねた81年9月のこと、首相は開口一番「捕まったりしないように注意しなさい」と言ったのだ。これが送別の辞かとちょっと拍子抜けしたが、その気持ちもわからないではなかった。

当時の韓国は光州での民衆弾圧を経て全斗煥政権ができて1年余り。死刑囚となった金大中氏は刑務所の中だったが、この間、日本の新聞社の支局が次々に閉鎖され、記者は強制退去を命じられるなど、報道の弾圧が目についた。鈴木首相は私の身を案ずる一方、面倒な外交問題を起こされては困ると思ったのかもしれない。

それから1年間、私は無事にソウル生活を送った。挙動が不審だとスパイ申告されたことがあったが、すぐ誤解は解け、鈴木首相を心配させるようなことは起きなかった。

だが、金大中氏の身の上は鈴木首相を悩ませ続けた。82年1月に無期懲役に減刑され、のちに治療の名目で米国へ渡るのだが、その間、米国とともに強く韓国に働きかけたのは鈴木政権だ。金大中氏は73年に東京で起きた拉致事件の被害者だったから、日本としても他人事ではなかった。

一方、82年6月に起きたのが日本の教科書をめぐる「歪曲事件」だった。高校の歴史教科書が文部省(現、文部科学省)の検定によって「侵略や植民地の過去が美化された」と韓国と中国で大問題になった。ソウル暮らしの私は毎日、新聞やテレビに踊る「歪曲」の言葉に、まるで自分が責められるような気がした。

この対応に苦労したのも鈴木政権だった。結局、宮沢喜一官房長官(のちの首相)が談話を出し、近現代史の教科書について近隣のアジア諸国との協調に配慮すると約束して収拾した。

思えば当時、日韓基本条約が結ばれて17年もたつのに、両国関係には不自然さがつきまとった。同じ自由陣営とはいえ、一方は民主化勢力を弾圧する軍事独裁政権だし、他方は植民地時代への反省が足りない旧支配国だ。こうした条約締結以来の矛盾に改めて悩まされたのが、鈴木首相だった。

さて、それから30数年がすぎた。民主化されて久しい韓国と、首相の謝罪が重ねられたあとの日本ではすっかり事情が違うのに、昨今の日韓関係はどこかあのころを思い出させる。

まず、朴槿恵大統領の名誉を毀損したとして、産経新聞ソウル支局長が起訴されたことだ。かつての緊張感とは比較にならないとはいえ、報道の自由に対する政権の圧力は、鈴木首相が私に伝えた心配を思い出させる。日本政府は、韓国と基本的価値観をともにするかについて疑問を呈したほどだ。

一方、今の歴史認識をめぐる対立は、歴史教科書事件のころを思わせる。90年代に進んだ謝罪と和解の動きはいったい何だったのか、こちらは安倍晋三首相に大きな責任があろう。

あのころに比べれば、国民同士の関係は飛躍的によくなった。だが、今の方がやっかいなのは、政権同士の不信感が大きいことだ。鈴木政権は何とか歴史問題を解決しようと努力した。一方の全斗煥政権は「反日」の利用から制御に転じた。鈴木政権のあと、中曽根康弘首相は電撃的に韓国を訪問すると、一気に関係を改善させ、やがて全斗煥大統領を国賓として日本に招待した。

あの時代、冷戦の厳しいころであり、韓国はソ連や中国を恐れていた。そんな東アジアの状況がいま全く違うのは言うまでもないが、それだけで日韓の距離が広がるのは何とも情けない。

日韓基本条約の締結50周年まで、あと2か月。一昨日、産経新聞支局長の出国が8か月ぶりに許されたことが、両国の雪解けにつながることを祈る。

(若宮啓文 日本国際交流センター・シニアフェロー、元朝日新聞主筆)