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ライバルのプッチーニとマーラーが大切にした作曲家コルンゴルト

ライバルのプッチーニとマーラーが大切にした作曲家コルンゴルト

Posted September. 02, 2014 10:13,   

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世界中どこにでもあるように、音楽家たちの社会にもぎこちない関係があった。19世紀から20世紀の転換期、世界のオペラ界を代表したイタリアのジャコモ・プッチーニとこの時代にウィーン国立歌劇場の監督だった作曲家、グスタフ・マーラーもそうだった。

2人が声を荒げて争ったり、告訴戦を繰り広げたりしたことはない。マーラーは、ハンブルク市立劇場の第一楽長だった時、プッチーニの初のオペラ「妖精ヴィッリ」を指揮した。しかし、マーラーはその後、プッチーニに対して「和声学も知らない者が管弦楽法を使う」とあざ笑った。

プッチーニがマーラーを攻撃した記録はない。しかし、プッチーニとしばしば争いながらも、生涯助け合う関係だった指揮者、アルトゥーロ・トスカニーニは、マーラーと仲が悪かった。マーラーは、ウィーン国立歌劇場の第一楽長を辞めた後、米ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の指揮者として招かれたが、2年後にトスカニーニに追い出され、ニューヨーク・フィルハーモニックに移った。トスカニーニは、マーラーの音楽に嫌悪感を示し、指揮することもなかった。トスカニーニがプッチーニの代理戦をしたと言えるかもしれない。

しかし、マーラーとプッチーニが共通して愛した作曲家がいた。オーストリア人のエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897〜1957)だ。マーラーは、コルンゴルトが12才の時に書いたカンタータを聞いて魅了され、音楽界に彼を紹介し、支援した。プッチーニも、彼を高く評価して支援し、自分の作品の印象についてコルンゴルトに相談することもあった。

ユダヤ系だったコルンゴルトは、ナチスのオーストリア併合後、米国に渡り、ハリウッドの映画音楽を書いた。指揮者のジョン・マウチェリは、「第2次世界大戦後、世界の人々がマーラーの音楽を近くで接することができたのは、マーラーの音楽スタイルがコルンゴルトに伝えられ、映画を通じて親しむことができたからだ」と説明する。

マーラーとプッチーニの愛を一身に受けた俊才コルンゴルト。彼のオペラ「死の都」に出てくる「マリエッタの唄」と「ピエロの唄」を今日(2日)、ソウル芸術の殿堂で初来韓公演を行う英国のヴァオリニスト、ニコラ・ベネデッティが演奏する。1月には、ソウル市立交響楽団のスヴェトリン・ルセヴ楽長が、ソウル市立交響楽団とコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲を共演しており、今年はコルンゴルトがソウルの舞台にしばしば登場する年になりそうだ。