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[オピニオン]「イ・スンボクの父」の寂しい葬儀

[オピニオン]「イ・スンボクの父」の寂しい葬儀

Posted August. 29, 2014 03:51,   

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1968年10月30日、北朝鮮の武装共産軍120人が、慶尚北道蔚珍(キョンサンプクト・ウルチン)と江原道三陟(カンウォンド・サムチョク)の海岸に侵入した。彼らは、蔚珍の山間の村の住民に北朝鮮を称賛することを強要し、逆らったり躊躇した住民を銃剣で刺し、石で頭を殴って殺害した。住民の通報を受けて出動した韓国の軍警は、同年末まで掃討作戦を行い、113人を射殺し、7人を捕えた。

◆北に逃走した共産軍は、12月9日、江原道平昌(ピョンチャン)の人里離れた家で、当時9才だった小学生のイ・スンボク君と2人の弟、母親の4人を殺害した。イ・スンボク君が「共産党は嫌だ」と言うと、共産軍は右唇から耳にかけて銃剣で切り裂いて殺害した。父親のイ・ソクウさんも共産軍に捕まって太ももを刺されたが、逃げ出して軍警に通報した。

◆家庭が崩壊した衝撃で苦労したイ・ソクウさんが24日、亡くなった。事件当時、辛うじて助かったイ・スンボクさんの兄のイ・ハククァンさんら遺族は25日、「機関長たちに連絡する」というイ・スンボク記念館関係者の電話を受けた。しかし、江原教育庁が管掌する記念館で26日に行われた葬儀には、道知事も教育長も地元の警察幹部も参列しなかった。葬儀場に置かれた小さな弔花には、教育監ではなく副教育監の名が書かれていた。遺族は、記念館前の庭のコンクリートの上に座って食事をした。

◆一部の左派勢力は、1990年代以降、イ・スンボク家族殺害事件の意味を評価しないよう努めた。イ・スンボク君は教科書から消え、記念館長の職級も教育長級から係長級に下がった。偶然の一致かも知れないが、「イ・スンボクの父」の葬儀に参列しなかった閔丙熹(ミン・ビョンヒ)江原道教育監は反共にアレルギー反応を見せる親全教組教育監であり、崔文洵(チェ・ムンスン)江原知事は野党新政治民主連合の所属だ。コンクリートの上に座って食事をするイ・スンボク君の遺族の写真を見て、最近、ソウル顕忠院(ヒョンチュンウォン)で行われたある元大統領の5周忌追悼式で、46年前に「蔚珍・三陟武装共産軍事件」を起こした金日成(キム・イルソン)主席の孫の金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の弔花がレッドカーペットの上に置かれ、礼遇されていたことが思い出され、複雑な思いだ。

権純活(クォン・スンファル)論説委員shkwon@donga.com