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[東京少考] 天国で嘆く日韓条約の立役者

Posted March. 14, 2014 15:24,   

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 日韓基本条約が結ばれて国交が開かれたのは1965年のこと。14年にわたった難交渉をまとめた立役者は、韓国の李東元外務部長官と、日本の椎名悦三郎外相だった。この二人が天国でぱったり出会い、こんな会話を交わしていた。

 李 これは、椎名大臣ではないですか。懐かしいですね。

 椎名 おや、李長官。私の息子のような年なのに、もうこっちにいたとは。

 李 ええ、あのころは30代の若輩者でしたが、7年ほど前からこちらに。

 椎名 当時は朴正煕大統領もまだ40代。あなた方は若くて活気があった。

 李 でも、椎名さんは練達の大物でした。「屈辱外交反対」のデモが燃えるソウルへきて、金浦空港で声明を読み上げましたね。「不幸な期間があったことはまことに遺憾な次第でありまして、深く反省するものであります」と。あれは歴史的でした。

 椎名 いまにすれば大した表現じゃないが、何しろ初めての謝罪だから緊張したねえ。

 李 日本国内の抵抗にも拘わらず「謝罪は本当の大人がするものだ」と言って押し切ったとか。

椎名 だが、ホテルに向かう沿道ではデモ隊が「椎名は帰れ」「屈辱外交を許すな」と叫び、車には卵が飛んできた。

李 それをじっと我慢しましたね。大局を見る目と、覚悟のほどがうかがわれましたよ。

 椎名 そんなにおだてなさるな。あなたも、さぞ大変だったろうね。

李 でも、交渉をまとめろと、大統領が断固たる決意でしたから…。

椎名 大統領には気迫があったが、その数年前に来日して池田勇人首相らと会った時は、非常に謙虚に振る舞われた。

 李 とても丁重に「先輩方、お助けください」とね。国内では屈辱外交と非難されましたが、貧しく荒廃した韓国の将来を思えばこその謙虚さでした。

 椎名 礼儀正しいが、気骨のある、しっかりした相手だと印象づけたね。年配だった日本の政治家たちも、あれで、ぜひ何とかしようという気になった。

 李 外交は人間どうしがやることですからね。それにしても、椎名さんは人間味があふれていました。ソウルで交渉が難航すると、昼間から「一緒に酒でも飲もう」と言ってコニャックを取り出したので、びっくりしましたよ。

 椎名 ははは。何しろ難しい問題ばかりでね。ああでもしなければ…。

 李 1910年の併合条約は当初から無効だとか、韓国は朝鮮半島で唯一合法の政府だという我々の主張を、日本は飲めなかったから。独島の件も難題でした。

 椎名 三泊四日の滞在だったが、交渉は一向に進まず、時間が過ぎるばかり。それでもとことん知恵を出し、ついに合意したのは帰国日の明け方に近かった。

 李 椎名さんは、佐藤栄作首相の許可も得ぬままの、すごい決断でした。

 椎名 あの時間ではね。それに、トップの顔色ばかり見ていたら、大仕事はできない。誰かが泥をかぶらなくては。

 李 おかげで国交が結ばれ、経済協力で漢江の奇跡も実現。最近は韓流ブームも起きたのに、いろんな問題が噴き出して、日韓関係は惨憺たるありさまで。

 椎名 あの条約は苦しい妥協の産物だったから、確かに矛盾もあれば、不満な点もあったろう。50年もたてば状況が変わり、ほころびが出るのは仕方ないが、それをうまく補っていくのが政治・外交の知恵じゃないか。

李 ところが下界は自己主張ばかり。国連の場で日韓が言い争うなんて、時計の針がいつまで戻ったことやら…。

椎名 世界に笑われるよ。私の親しい先輩だった岸信介元首相は、日韓関係に心血を注いだものだ。この惨状を招いた孫を、どう見ておるかなあ。

李 朴大統領も、かたくなな娘さんをどう見ておられるのやら。

椎名 お二人には久しく会っていないが、ぜひ酒を酌み交わしたい。

李 天国も混みあっていますが、何とか探し出してみましょう。

<以上、李東元著『韓日条約締結秘話』などを参考にした>

若宮啓文(日本国際交流センター・シニアフェロー、前朝日新聞主筆)