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東京で思う“チョー・ヨンピル”の意義

Posted November. 21, 2013 03:38,   

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「こんばんは。お久しぶりですね」と、チョー・ヨンピルがやわらかな日本語で語り掛けた。今年大ヒットした“Hello”や“Bounce”の日本語版の披露を兼ねて、15年ぶりに東京で開いた今月7日のコンサート。久しく彼を待っていたファンの渦の中に私もいた。

 私が初めて彼の歌を聴いたのは1981年のことだ。速いテンポのポップス調に哀愁を交えた“赤とんぼ”。切ない思いを美しく歌い上げた“窓の外の女”。その歌唱力と斬新さに魅了された日本人は私だけではなかった。翌年、日本の文化放送が東京で開いたアジア・ミュージックフォーラムに招かれた彼は、やがて“想い出迷子”のような日本製のヒット曲を生むことになる。

 以来、30年余。日韓の国民どうしを近づけた大衆芸能の力の大きさを思う時、チョーヨンピルの存在を忘れることはできない。

画期的だったのは87年12月31日、NHKテレビの紅白歌合戦に韓国歌手として初めて出場したことだろう。このとき“窓の外の女”を歌い、翌年は白い韓服をまとって“恨五百年”を披露。90年にはソウルのロッテワールドからの実況で“釜山港に帰れ”を歌った。4年も続けて紅白歌合戦に出場した韓国人歌手は彼だけで、やがて花開く韓流ブームの先駆けとなった。

87年と言えば民主化宣言の年だった。88年にはソウルでオリンピックが開かた。韓国の国際的イメージは大きく変わり、時代は彼に追い風を送った。いや、すでに日本での活動を切り開いていた彼に、時代の方が追いついたと言うべきか。

 「自分は音楽家であって、政治とは関係ない」という彼も、時代の中で役割を果たしてきたことは間違いない。例えば“窓の外の女”が生まれたのは、光州で悲劇があった80年のこと。ソウル大の宋虎根教授は「誰もが誰をも慰めることができなかった時に、か細いバイオリンの旋律で始まるその歌が、歴史の匕首(あいくち)が刺さった心の傷を癒そうとは想像できなかった」「その歌を口ずさみながら、私たちは光州事態を記憶の中にとどめた」(東亜日報、2006年10月26日)と書いている。

私は彼のデビュー曲“釜山港に帰れ”に秘められた謎を取材したことがある。日本語の歌詞では港で恋人の帰りを待つ失恋の歌なのに、韓国語の歌詞では兄弟を待つ歌である。その違いが気になっていたのだが、彼が教えてくれたところでは、もとは恋の歌だったというではないか。

恋人が兄弟に変わったのは、レコード会社の勧めだった。当時の韓国は、日本に住む北朝鮮系の同朋たちに墓参の里帰りを勧める運動を展開しており、離れ離れの兄弟たちに社会の関心が向いていた。こうしてあの歌詞には南北分断の哀しみが込められたわけだが、チョー・ヨンピルはその実、2005年に平壌コンサートも実現させている。

さて、15年ぶりの東京コンサートで印象づけられたのは、友情ということだった。観客席には初の来日以来つきあいがある日本の歌手、谷村新司が来ていたが、ステージの上から彼を紹介したチョーヨンピルは、そこで“チングヨ”(友よ)を歌いあげる。日韓首脳の間に会談もできないほど大きな溝ができているさなか、人々の友情に変わりがあってはならないというメッセージに思えて、私の心は揺さぶられた。

そういえば、15年ぶりというタイミングにも不思議な偶然がある。金大中大統領が訪日し、小渕恵三首相とともに「日韓パートナーシップ共同宣言」を発表したのが、奇しくも同じ15年前の1998年だったのだ。あれは日韓の和解ムードの頂点であり、韓国が日本の大衆文化に扉を開いたのもこの宣言だった。

昨秋、日本で講演した韓国の韓昇洲・元外相は「戦争は将軍たちに任せておくには重大すぎる」というクレマンソー・元フランス首相の言葉を引用し、日中韓の3国関係について「政治指導者に任せておくには重大すぎる」と警鐘を鳴らした。大事な日韓関係を作っていくには、さまざまな分野で双方の人々が交わり、チングを増やしていくしかなかろう。韓国のビッグスターのステージを見ながら、つくづくそれを実感したのだった。

(若宮啓文 日本国際交流センター・シニアフェロー、前朝日新聞主筆)