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家を出れば苦労するというが

Posted August. 09, 2013 03:37,   

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踏査を名目にほかの人が行かない所を選んで行き、時には地元の人もよく知らない場所をグーグルの地図と座標に頼って訪ねて行く無謀な旅をして10年。

2年前、専門用語で「銅鍑(どうふく:青銅器時代の青銅の容器)」、簡単に言えば、青銅の釜を見るためにカップラーメンで食事を済ませながら、ハンガリーの名前も分からない田舎町まで行ったことがあった。実物を見た瞬間、歓呼する私たち一行よりも呆れている現地ガイドの表情が記憶に残っている。その年の東欧旅行のテーマは「銅鍑を訪ねて」だった。

今年はロシアの有名な夏のリゾート地であるソチに行って、黒海で泳ぐことをあきらめ、汗を流しながら支石墓を探し回った。避暑地の交通渋滞のため道路にいる時間が長かったが、新しいスタイルの支石墓を発見するたびに、北欧の金髪美女を見るような感嘆の声を連発し、韓国人初かも知れないという感動もあって興奮した。これが踏査の妙味ではないだろうか。

10年来の知人が集まれば、それぞれの思い出話に花が咲く。その中で欠かせない話題が6年前に行ったモンゴル北西端にあるバヤンウルギーの踏査だ。日程のうち5日は古いロシア製のミニバンに乗って、行けども行けども車窓からの風景が変わらないコースを走っていくと、ホテルどころか旅館のようなものもない。車の床から入ってくる土ぼこりを吸い込み、日が暮れる頃には水辺で野営した。

27人の大規模な遠征隊に準備されたのは、モンゴルの遊牧民の移動式住居「ゲル」だった。列をなして草原を走る5台のミニバンの後に、トラック1台が後をついていく光景は壮観だった。トラックには大型のゲルと2人用テント、簡易トイレと台所用テントが積まれ、荷物の上には貴重な食糧である生きた羊3頭が積まれていた。昼間は太陽の日差しが露出した腕や足に照りつけ、夜には逆にジャンパーを着込んで寝袋に入っても寒さを感じるのが草原の天候だ。

こんな話をすれば真夏だからいいと羨むだろうが、氷河の溶けた川の水がどれほど冷たいことか、指先が痛くて、簡単に顔や足を洗って、歯を磨く程度で「よし」としなければならないと言えば事情は変わる。「なぜ自ら苦労するのか」と言ってくる。理由は多い。突然の夕立の後に空にできる虹、張りつけたように光る月、降り注ぐように夜空を覆う星が、旅行の合間の喜びなら、海抜3000メートルの高地を馬に乗り、タヴァン・ボグド山の万年雪を胸に抱いた瞬間は、永久保存して時々取り出してみたい感動だった。このような思い出を保存するために苦労するのだ。

日本のジャーナリスト・ノンフィクション作家の立花隆は『思索紀行』で、「旅行のパターン化は旅行の自殺だ」とし、「旅行の本質は発見にある。日常性というパターンから抜け出した時に自分が何を発見するのか、何か全く新しいものに接した時に自分がどのように変化するのか、新しい自分を発見するところにある」と書いた。

新しいものに接するには出発しなければならず、出発するには未練があってはならない。しかし、都会の人々は未練が多い。最近は、キャンプという名で何でも必要なものは買っていく旅行が流行だ。服を着替えやすくした天井の高いインナーテント、4人家族以上が十分に座れる日陰テント、床の寒気や湿気を完全に遮断する分厚い寝具、バーベキューグリルと椅子まですべて揃っているにもかかわらず、必要な道具はますます増え、高級になる。これに合わせて自動車トランクも大きいものが好まれる。大型のアイスボックスにサムギョプサルやソーセージ、チゲの材料をいっぱいに積んでいくので、郷土料理について考える必要もない。空っぽで出発すれば、旅行は勝手にその分を満たしてくれるという。反対にいっぱいに満たして行けば、旅行はゴミだけを捨てて来る。