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韓国史で評価されない権利

Posted August. 08, 2013 03:13,   

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「韓国史を試験の評価基準に入れるべきだ」。朴槿恵(パク・グンへ)大統領のこの一言が、教育部を困惑させている。この言葉は実は、高校教育過程や大学入試制度を理解していない言葉だといえる。国語や英語、数学は、修学能力試験(修能=日本のセンター試験に該当)の必須科目のように見えるが、正確にはそうではない。大学や専攻によっては、国語や英語、数学の一部を受験せずに入れるところが少なくない。にもかかわらず、韓国史のみ修能必須科目にするのは、果たして適切なのだろうか。

大学入試は自主化に向かって進んでいる。大学は希望すれば、韓国史の修能点数を要求することもできる。ソウル大学がそうである。より多くの大学が希望すればいいが、実はそうではない。ソウル大学も韓国史のために、優秀な学生を奪われているとおもったためか、韓国史を必須科目から外そうとするという噂が取りざたされていたが、大統領の言葉が出たことで白紙に戻った。

大学入試科目に入れることこそ、教育の強化につながるという考え方も単純だ。高校の社会探求科目は高校の現場では原則として全て選択科目だが、韓国史だけ必須科目となっている。もちろん、韓国史教育を強化するためのことだ。韓国史教育をより強化することが目的なら、教育時間だけを増やせばよい。韓国史を必ず学ばなければならず、試験を受け、その結果は内申に反映される。修能のみ評価するという考え方は、内申を重視し、入試に反映させている教育イデオロギーとも合致しない。

韓国史の修能必須化は、そもそも無理なことだ。しかし、大統領がそんな言葉を口にしたからには、教育部は対策を出さないわけにはいかなくなるだろう。ここで、韓国史能力評価試験という奇妙な発想が出てきた。修能日前に、韓国史能力評価試験を受験し、「合格」と「不合格」のみを決めるというもの。そのような試験を別途運営するのも煩わしいことだが、言語能力評価試験でもなく、歴史能力評価試験などというものは、外国メディアにとってはトピックとも言える。

修能であれ、内申であれ、韓国史能力評価試験であれ、受験してこそ国史をよく知ることになるという考え方が何より間違っている。韓国史を含む全ての歴史教育は、暗記科目になった瞬間、失敗するのがおちだ。フランス・パリ特派員時代、1人の英国人講師が、フランス人の聴衆らに向け、自国の歴史教育について嘆いていたことを耳にしたことがある。

その講師は、「最近の子供らは、第2世界大戦についてよく知らない」とし、「ヒットラーを画家だと思う子供すらいる」と話した。ところが、彼が考えている解決策は、韓国とは違ったものだった。「英国の教育は、流れについての知識無しに、多肢選択法問題に答える形で行われているからだ」とし、フランス流の論述方問題を羨望した。

今も記憶に残る高校時代の先生がいる。韓国史ではなく、世界史の先生だった。維新体制が崩壊した1980年ごろのソウル郊外の公立学校はめちゃくちゃだった。児童生徒らは、髪を伸ばさせろと、学校のガラス窓を壊したりした。教師らも、授業を頻繁にサボり、自習をさせた。そんな中で、たまに世界史の先生が授業に入って聞かせてくれた授業が忘れられない。主君と封臣との契約関係が中心となった中世の封建制についての説明、中世とフランス革命との間の絶対主義時代の意味、アヘン戦争の原因となった朝貢貿易の意味合いについては、そのとき初めて耳にした。試験にはあまり役立たなかったが、後で、歴史をよりよく理解するのに大きく役立っている。

私は大学に入るために韓国史を受験した世代ではあるが、我々の子供らが、韓国史で評価を受けることは願わない。日本における日本史の教科書は、倭の伽耶支配を教えており、中国の中国史の教科書は、朝鮮を属国かのように表現している。我々韓国の韓国史の教科書が教える内容とは違う。全て正確なことではない。どの国であれ、小中高校の国史は、民族の誇りを高めるため、巧妙に事実に目をつぶったり、事実を歪曲する側面がある。国の一員として生きている以上、国史を学ばない権利まで要求するのは難しい。しかし、国史で評価されない権利はあるべきではないか。皮肉なことだが、真なる国史は、高校を離れてからようやく学ぶことができるものだ。