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私が見た高句麗

Posted June. 04, 2013 05:10,   

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何度も行ってみた場所だが、先月「高句麗」を再び訪問したのは、特別な理由があったからだ。中国が2012年7月、吉林省集安市の西、麻線河の川べりで広開土大王(好太王)碑とは違う「集安高句麗碑」が見つかったという報道があったからだ。この碑石を確かめたかった。

集安一帯は、高句麗の2番目の都城である国内城の跡だ。集安は、白頭(ペクトゥ)山からのびた山々が何重にも囲んでいて、その中が盆地になっている広々とした都市だ。漢江(ハンガン)や清渓川(チョンゲチョン)のように、鴨緑江(アプロクガン)を挟んでいる。

最初の都は遼寧省に属している桓仁市一帯で、忽本城だ。五女城という険しい山の上に城を築いた。200メートルに上る断崖絶壁を生かした難攻不落の要塞で、天池と呼ばれる池もあり、長期抗戦に有利だ。下から見上げると、霊威と雄渾な気性に自ずと胸いっぱいになる。雛牟(チュモ)王は、ここに都を定め、解慕漱(ヘモス)を天帝として仰ぎ、自らを天孫と名乗った。忽本城を先に見て、国内城の方に向かった。車で4時間の距離だ。

集安市付近の麻線河地域は1000を越える高句麗古墳が密集している場所で、世界最大規模の古墳団地の一つ。遺跡のうち、「千秋塚」と「西大墓」は世界文化遺産に登載されており、有名な広開土大王碑、将軍塚、広開土大王陵などもある。広開土大王陵は、直径60メートル余りのピラミッドの上に壮麗な神殿を構えており、将軍塚は峻厳な山と鴨緑江との間の敷地にどっしりと構えている。いずれにしても、この地域で見つかった碑石であるだけに、高句麗の碑石である可能性は大変高いと言える。

中国は碑石を発見した後、研究チームを構成し、直ちに考証に着手したが、調査結果を発表したのは数ヵ月後のことだった。碑は、高さ170センチ程度で、前面には218文字が刻み込まれており、今まで150文字余りの解読が終わっているという。広開土大王碑とは比べにならないほど小さい。碑石の石材は、将軍塚を作った石材と同じものだとされ、製作時期は広開土大王時代か長寿王期の可能性が高いという。

中国は、完成後も数年間開館を見合わせていた新博物館を突然開場し、この碑石を実物だとして展示した。

新博物館にたどり着いた。携帯電話とカメラを預けてから入場が認められた。碑石は自分よりも遥かに大きいガラス箱の中に入っていた。思っていたより小さく、それも3メートル以上離れて見させられたため、肉眼では文字を確かめることができなかった。典型的な中国様式だと言うが、高句麗ならではの素朴さと機運ではなく、作為と傲慢さが感じられた。彼らが意図したことなのかは確認できないが、「公開はしても接近は遮断」されていたため、検証を困難になっていた。東北工程の影が見え隠れした。

高句麗は特別で大きな国だ。領土が広大だったし、騎馬軍団と水軍を使って戦闘に長けていたし、人々の気質も身体も健康だった。数百年にわたって中国中原を争覇し、最強国家としての存在感を謳歌した。自由意志と気概、天に通じる神妙な美意識はもちろん、武器製作と山城築造に活かされた優れた科学技術を保有していた。東アジアのすべての種族と交流し、共存する包容力と統率力もあった。我々のDNAには、そのような高句麗の魂が染み込んでおり、血の中には力強い気性が脈打っている。

「集安新高句麗碑」は、高句麗に関する記録が不足する状況下で、貴重な資料となるものだが、発見、解釈、研究のいずれもが中国に委ねられている。東北亜歴史財団など学界でより積極的に韓中共同研究を多様な分野で推進する必要がある。我々は、長い間、植民史観の延長である「半島史観」に囚われており、大学受験でさえも国史を除外して久しい。歴史は過去ではなく現在であり、未来を発展させるモデルを提供する。高句麗を学ぼう。