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「北の仕業に見せかけた」 5・18で新軍部が情報操作

「北の仕業に見せかけた」 5・18で新軍部が情報操作

Posted May. 23, 2013 04:21,   

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1980年の5・18民主化運動当時、新軍部が密かに民間人を装った軍人300人を光州(クァンジュ)に派遣し、宣撫(ある方向に世論を誘導する行為)工作をした事実が明らかになった。また、仲間の誤射で死亡した軍人を暴徒の凶弾で殉職したとして叙勲記録を捏造した事実も明らかになった。

5・18民主有功者遺族会のチョン・スマン前会長(68)は、新軍部の宣撫工作と叙勲記録捏造資料を22日、東亜(トンア)日報に公開した。チョン氏は、長年に渡って5・18関連の膨大な記録と資料を発掘・分析し、このような事実を明らかにした。チェ氏は、「5・18の歴史歪曲が深刻だと判断し、資料を公開した」とし、「5・18の真実が明らかになるきっかけになってほしい」と語った。

●宣撫工作員300人を派遣

チョン氏が発見した1980年5月25日の戦闘兵科教育司令部(戦教司)の作戦日誌には、「宣撫団員の安全護送要請」と題して、「25日7時、ソウルで老壮護国団員300人がウォーカーヒルのバス8台に乗って出発する」と記録されている。また、「13時、全州(チョンジュ)到着、宣撫団員が戒厳分所まで安全に到着するよう措置を望む」という要望事項も記されている。当時、戒厳分所は、光州西区(クァンジュ・ソク)尚武台内の戦教司に設置されていた。同日作成された戒厳司令部状況日誌にも、「ソウル宣撫工作員の到着予定、団体名:ソウル老壮護国団、人数:300人、交通手段:ウォーカーヒルのバス8台で高速道路を利用、07:00出発、13:00到着予定」と書かれてある。

当時光州全羅南道(チョンラナムド)地域を管轄していた505保安部隊長も、宣撫工作員の実体について検察で供述していたことが確認された。李部隊長は1995年1月、検察の「12・12、5・18調査」で、「鎮圧作戦と関連して、作戦部隊から民間人を装って密かに市内に侵入させたという事実を鎮圧作戦が終わった後に知った」と話した。チョン氏は、「当時、イ・ヒソン戒厳司令官が1980年5月21日に『騒擾はスパイ、不純分子、チンピラによって操縦されている』という内容の警告文を配布した」とし、「これは新軍部が秘密工作員を光州に派遣した後、北朝鮮などの仕業に捏造した明白な証拠だ」と明らかにした。

宣撫工作員が光州に投入される6日前の5月19日には、第2軍司令部が「便衣隊」を運用した事実も明らかになった。軍事用語である便衣隊は、責任区域に侵入した敵を探し出すために、その地域の農民、行商などを装って住民と共に行動をする臨時特別部隊をいう。戦教司戦闘詳報には、5月19日に、「多くの便衣隊を運用し、果敢に攻撃し、住民に宣撫活動を講じよ」という第2軍司令部の忠正作戦ガイドラインの追加指示が記録されている。

●誤射で死亡した軍人の叙勲も捏造

1980年5月24日午後2時頃、第11特戦旅団A中佐(当時24才)は、光州西区松岩洞(ソンアムドン)で陸軍歩兵学校教導隊の誤射により死亡した。5・18鎮圧作戦が終わった後、第7特戦旅団、第11特戦旅団、第3特戦旅団が共に作成した「特戦司戦闘詳報」には、5月24日の状況が詳しく書かれている。詳報は、「松岩洞3通りで暴徒から攻撃を受けた空輸部隊員が車両に移動するのを待ち伏せしていた歩兵学校教導隊が、デモ隊車両と誤認して攻撃し、被害を受けた」と記録している。当時松岩洞では、第11特戦旅団7人、第7特殊旅団1人、戦教司軍需支援輸送隊1人の9人が死亡した。陸軍本部が1988年に国会に提出した聴聞会資料にも、A中佐など9人の死因は「歩校誤射」となっている。「歩校」とは陸軍歩兵学校のことを指す。

しかし、A中佐ら7人は、1980年、総務処「武功勲章簿」功績欄に、「忠正作戦に参加し、5月24日、暴徒の凶弾で殉職」と記録されている。残りの2人は、「不義の銃弾を受けて殉職」、「暴徒制圧中、無反動銃で狙撃されて戦死」とある。A中佐らには、1980年6月20日、武功勲章が叙勲された。チョン氏は、「特戦司戦闘詳報や戒厳司状況日誌、陸軍本部の作戦状況日誌などを分析した結果、5・18で死亡した軍人23人のうち17人が味方の誤射で死亡したと集計された。捏造された記録を正さなければならない」と主張した。