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海洋水産部新任長官・尹珍淑の海

Posted April. 22, 2013 05:15,   

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海の責任を負う尹珍淑(ユン・ジンスク)海洋水産部(海水部)長官が困難な未知の海の前に立った。一人ではない。尹長官の隣には大統領も立っている。尹長官の「海経営」の成績表は直ちに大統領の人を見る目への評価表になるだろう。最後まで尹長官を放さなかった大統領も服の裾が濡れることぐらいは覚悟しているだろう。

乗船前から試練を与えた海が、今後どんなことでまた尹長官を揺さぶるか分からない。海は久しく静まったことがない。尹長官の前には少なくとも5つの姿の荒々しい海が待っている。

「滄海一粟」。尹長官は、大海の一粒の粟のような状況だ。「砂の中の真珠」から「真珠の中の砂」になり、首長としての権威を失った。海水部約3800人と海洋警察庁約1万人は自負心を取り戻せるだろうか。自分が真珠であることを証明する道しかない。「砂に埋まった真珠」のような中途半端な評価ではだめだ。あまりにも有名になったため、期待値が上がったためだ。

「山尽海渇」。山も海も壁に当たれば、それ以上進めなくなる。5年ぶりに復活した海水部がその境遇だ。そのうえ「創造経済」というフレームをさらに担わなければならない。ベテラン官僚もどうしていいか分からない。本人の力量で土を掘り、山を作って水を引き、海を満たさなければならない。

「以指測海」。指で海の深さを測ろうとする人をあざ笑う言葉だが、尹長官はどうか。尹長官の最後の職責は国策研究機関の本部長で、行政能力を語るほどの地位ではない。専攻も海洋環境なので、水産分野や海洋領土紛争、海洋外交、海洋産業育成などの難題をどう解いていくのか心配だ。長官があらゆる分野に通ずることはできず、そのような必要もないという。もっともな言葉だが、前提がある。事の要点を素早く把握してビジョンを提示し、部下の力量を1ヵ所に結集する能力がなければならない。

「百川学海」。すべての川が休むことなく海へと流れてゆくように地道に学ばなければならない。ところで尹長官はもはや学者ではない。成果が優先される。結局は選択と集中の問題だが、まさにこの問題で大統領の選択が正しかったことを示さなければならない。キジを捕えるのがタカだというように、仕事ができるなら資質の問題も減るだろう。

「眼空四海」。周囲を見下して横柄になってはならない。尹長官は立身出生した。そのような人は任命権者には従順だが、下の者には傲慢になる傾向がある。一種の補償心理だ。長官は力が強く、行く先々でレッドカーペットを敷く部下が並んでいる。それを楽しんでいると、自分が本当に偉大な人物だという錯覚に陥りやすい。

一部で尹長官を「ルッキズム(lookism=容貌至上主義)」の被害者と主張する。ナンセンスだ。ルッキズムと関係もなく、一国の長官に指名されたことからもルッキズムの被害者ではなく、ルッキズムを克服した事例と見る方が説得力がある。

尹長官が苦境に陥った理由は知られているとおりだ。尹長官は聴聞会で自分の価値を伝えることに失敗した。聴聞会の速記録を読んでみてもすぐに分かることだ。党議員からも「本当に恥ずかしい」という言葉が出たほどだ。

聴聞会で筋が通っていた発言は、下の者が書いた冒頭の発言と自分の専攻である干潟に関することぐらいだった。ほかでは数字に弱く、質問の要旨に鈍く、青写真もなくビジョンも提示しなかった。「分かりません」と取り繕う笑いだけだった。数日前、大統領業務報告は練習を何度もして無難に終えたというので、長官指名後の44日間勉強をしなかったことは間違いない。目前の長官の地位に頭の中が真っ白になったのか。

聴聞会がすべてではない。だからといって聴聞会で強い印象を(肯定的な意味で)与えることができなくても有能な公職者になるという保障もない。口先だけでも困るが、自分の実力と思考、抱負をスマートに伝えることもこの時代の能力だ。それでこそ反対者を説得し、難題を克服することができる。「プレゼンテーション」ブームが理由もなく起こったのではない。

しかし、尹長官の問題は別にあるようだ。尹長官は聴聞会で「多分」という単語を58回も使った。謙虚から出た言葉ではない。記憶について、事実関係について、所管業務について確信がなかった。リーダーとしては重大な欠格だ。早く改めなければ「多分」国民は尹長官を「多分長官」と呼ぶことになるかも知れない。

それでも船は発った。尹長官が世論の予想を裏切って自分に対する評価を肯定的に変えることを期待する。そのような裏切りならいくらでも歓迎だ。そして、尹長官が苦痛の海である「苦輪之海」を経験せず、波が静まり、世の中が安らかになる「海不揚波」、「四海静謐」の海水部にすることを願う。