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[オピニオン]法官の良心

Posted February. 21, 2013 03:25,   

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ウォンニム(地方官の総称)裁判という言葉がある。裁判官のウォンニムが「お前の罪はお前が良く知っているはずだ」と号令して尻を打つと、罪を疑われた者はもう打つ手がない。しかし、西洋ではもっと常識に欠けた裁判もあった。ハンムラビ法典第2条は、「被告が巫術で人を魅惑したが、証明する方法がない場合、川に投げて真偽を判断する。体が浮けば潔白だが、溺死すれば有罪だ」と記している。断罪対象の「巫術の魅惑」に比べて法が全く正義に思われない。中世の魔女裁判はさらに恐ろしかった。魔女とレッテルが貼られた女性を川に投げ込み、浮き上がれば魔女だとして再び火刑に処し、沈むと「悔しさに塗れた死」と思った。いずれにせよ死ぬことになっている。このように裁判権を神霊の存在に託すことを神託裁判と言う。

◆陪審裁判は巡回裁判官制度から始まった。田舎の村の事件は裁判官が巡回しながら判決を下したが、いくら裁判官が聡明でも1〜2日で事件を正確に把握して判断するのは不可能だった。そこで裁判官は村に到着すると、一定数の住民を無作為で選んだ後、彼らにどのようなことが起きたかを聞き、彼らが一致して言う事実を根拠に判決した。陪審制は有力者の味方をする裁判部が非常識な判決を下そうとする時の良いけん制手段だった。しかし、三星(サムスン)電子—アップルの特許紛争のように陪審員の隣人と外部の人間が争ったり、陪審員が争いの内容を理解できない場合には彼らに裁判を任せてはならない。

◆ここへきて国内の裁判所で主に問題になるのは、判事の偏向性から出る「目立つ判決」だ。最近、ある判事は不法賭博サイトを開設して30億ウォンをもうけた容疑で起訴された被告人に執行猶予という異例の軽い刑を言い渡した。同氏は判決文の相当分量を国の射倖事業政策を批判することに割いた後、「被告の罪は認められるが、巨悪を犯す国が断罪するのは正義でない」としてこのように宣告した。国は宝くじ、競馬、競輪、カジノなど、各種射倖事業をしても処罰されないのに、個人で行った場合はどうして処罰されなければならないのかということだ。国の公益事業と個人の私益を混同するなど、様々な面で無理な理屈だ。わざわざ判事の所信を見せつけるつもりだったら、判決以前に当該法律の違憲の有無を調べるのが筋だ。

◆韓国の憲法は「法官は憲法と法律にのっとってその良心に従って独立した審判をする」と規定している。ここで言う「良心」は個人の独断ではなく、社会的に共感できる普遍的認識であるべきだ。韓国の司法制度は下級審の誤った判決を上級審で正すために3審制を採択している。しかし、この過程で訴訟当事者が払う費用と苦痛は大きい。判事の実力と素養管理は司法部の主要責務の一つだ。