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おぞましい硫酸テロの苦痛から立ち直って…20代女性が再び歌う希望の歌

おぞましい硫酸テロの苦痛から立ち直って…20代女性が再び歌う希望の歌

Posted November. 15, 2012 08:47,   

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真昼間の街角での通り魔事件、会社から帰宅途中の女性を殺害したオ・ウォンチュン…。

時間が流れ、この手のニュースはたびたび目にするようになったのに、私は相変わらず、この類のニュースには慣れることができない。犯罪の中でも予期せぬ瞬間に出会ったときは、より恐ろしくその被害の度合いも大きいからだ。まるで、私がやられたように。

あの犯罪記事の被害者もわずか数時間、いや、数分前までは普通の人と同じように、きわめて平凡な人生を送っていたはずだった。平凡な者たちは、記事を目にし、憤りを感じるだろうが、すぐに記憶から忘れ去られる。明日を生きなければならないのは、すべて被害者の役目だった。硫酸にやられたその日以来、かろうじて3年間を生きてきてから解ったことだ。それでも私は運がよく、再び世の中に向け声を出すことができるほど、うまく乗り切ったような気がする。

●3年前の予期しなかった恐怖

髪をとかして、化粧をした。急いで服を着てからカバンを手にした。「行ってきます」。靴を履きながら母親に挨拶をした。「ご飯だけはちゃんと食べてね。わかった?」。閉まる玄関のドアの向こうから、毎日のような母親の小言が聞こえてきた。09年6月8日午前、いつもと変わらない、普通の出勤の道だった。

「ああ、ほんとにあの女の子、大丈夫か!?」

私に向けられた人々のざわめく声が聞こえてきたが、私には何が起きたのか理解できなかった。死ぬような苦しみが、肌に食い込んできて、血管に乗って体全体を駆けずり回るようだった。

こんな苦痛が、瞬く間に訪れた。ザッザッ。足を引きずらない男の足音が、後ろから聞こえてきたので、振り向こうとしたその瞬間、顔や首が燃えるように熱かった。生まれて初めて感じる苦痛だった。本能的に顔を覆った腕や手の甲にも、火のように熱い液体が流れ出した。

痛かったし、怖かったので、自宅に電話をかけようとした。口がうまく動かず、何を言っているのか、自分でもよくわからなかった。そのとき、手から力が抜け、携帯も力なく道に落とした。靴すら履いていない母親が駆けつける姿、救急車がサイレンの音を立てて私を運ぶシーンまでは、それでも思い出すことができる。

私が27歳のときの出来事だった。あの日の出勤途中、私は「硫酸の被害者」になった。07年に辞めたかつての会社の代表と、彼から仕向けられた同僚たちによる仕業だった。未払い賃金と投資金を払うようにと起こした訴訟で勝ったので、恨みを抱えてしでかしたことだった。平凡な会社員ではなく、犯罪被害者としての人生は、なんら予告無しに始まった。人たちが私についてうっすらと覚えているのは、たぶん、この日、ここまでだろう。

●翌日から始まった地獄

「うちの娘はどうしたらいいの!?」

母親の鳴き声にうっすらと気を取り戻したが、一語一語はっきりと状態を説明する医師の言葉に、頭がはっきりしてきた。体全体の皮膚の25%が硫酸によって焼かれ、硫酸は肌の中に浸透して肉を焼いており、一般的なやけどより治療が難しいといわれた。医療チームは、「患者の体に撒かれた硫酸800ミリリットルは純度99%のものであり、一切れの豚肉も残すことなく焼くことができる」ともいわれた。その言葉より、治療の過程のほうがもっと怖かった。傷に当たる医療器具が、「ザクッザクッ」と音を立てながらこそげると、真っ黒に変わった私の肉の塊が、少しずつ剥がれてきた。消毒液が肉の中にしみこむと、針で刺すような苦痛が押し寄せてきたが、心の中で考えた。「これの命の水だ、私をよみがえらせる命の水だ」

痛いと文句を言うこともできなかった。治療費が気になったからだ。私と一緒に、京畿道城南市(キョンギド・ソンナムシ)で、保証金2400万ウォンの13坪の借家に住んでいる運転手の父親と主婦の母親が払うには、「硫酸テロ」の治療費は、もう一つのテロだった。治療費は少なくとも4000万ウォンはかかるといわれた。

治療費を節約しようと、自分の太ももから肉をとって、顔の肌に移植するやり方を選ぶことにした。それでも、そんな大金をどこから工面すればいいか、気が遠くなるばかりだった。

一縷の希望はあった。政府から犯罪被害者に支給されるという「救助金」だった。救助金制度があることもネットで知ることができたが、それすら対象に選ばれなかった。主に顔に怪我をしており、手足を動かせて生活するには、大した問題はないという理由からだった。

一日中、おぞましい考えが頭の中を占めていた。「体の一部に障害を負わなかったことだけでも感謝すべきなのか?いや、むしろそうなったら、治療費の支援でも受けることができたのに」。「もしかしたら、火に焼かれたほうがましだったかも?それなら、ほかのやけどの患者たちのように、支援を受けることができたはずなのに」。

●鏡に映った「黒い私」

1週間が過ぎた。初めて鏡を見た。顔の半分は赤黒で、ところどころの黄色い膿が目に付いた。「でこぼこ」という言葉だけでは説明するのが難しかった。怪我をしていない顔の部分が、かえって馴染めなかった。白い肌が自慢だった私の姿は、忘れることにした。涙が出た。病室を訪れてきた友達らは、私と目を合わすことができず、窓の外を見たり、手にしていた飲み物を触ったりした。ぎごちなく目が合ったとき、友人は、「大丈夫だよ」と慰めの言葉をかけてきたが、ありがとうという普通の挨拶すらできなかった。その様子が大丈夫だと思えるほど、自分は馬鹿ではない!

友人が早く出て行くようにと願った。昼間はカーテンをかけ、それでも足りず、おばさんたちのように、日焼け止め帽子をかぶり、その上からまた帽子を被った。やけどの部位が僅かでも日に当たったら、治療がうまくいかないというのが理由だったが、怪我をした私の心まで覆うことができるかもしれない、という気持ちがあったような気がする。

その夜、夢を見た。真っ暗なところに私一人だけがぽつんと立っていた。通りかかる人たちを立ち止らせて、声をかけようとしたが、口が動かなかった。じたばたしてもそのまま。泣き声をあげてしまった。夢かと思ったが、目覚めてみると、顔に涙が流れていた。うつ病にかかり、感情の変化が激しくなった。生身の肌を削りとる火傷の治療より、もっと苦しかったのは心の傷、事故当時の記憶だった。

●唐突に訪れた希望

病院の1階のロビーの一番隅のところで母親の手に握られていたハンカチは、その日もじめじめと濡れていた。鼻をかんで涙を拭いた紙くずも山積み。そのとき、ロビーはあるNPOによる火傷児童への後援金手渡し行事のため、にぎわっていた。母親は、そのまま会場に足を運んだ。担当者を探して、「娘が大怪我をしている、何とか助けてほしい」と訴えた。そして、彼の手をとって、病室までつれてきた。私の顔を見て、当時の事件記事を思い出した団体の関係者らは、その場で「支援する」と口にした。母は、「天から助けてもらった」と安堵の涙を流した。

この団体は、事のてん末をネット上に掲載し、後援金の募金を提案した。私の物語は、このようにして世間に少しずつ知られるようになった。2週間が過ぎただろうか。1通の電話がかかってきた。「後援金として7000万ウォンが集まりました。治療費は気にせず、治療だけに専念してください」。

顔すら知らない数千人が、私のために少しずつ金を出してくれたなんて。この後援金のおかげで、「4000万ウォン完納」と書かれた領収書を受け取ることができた。残りの金は自宅の引越しに使った。慣れてはいたが、おぞましい記憶に再び襲われかねない気がしたからだ。

退院する頃、かつての会社を辞めて、新しく勤めていた会社の社長や同僚たちが、病院を訪れてきた。友人たちが来たときとは違って、目を合わせたり、いろいろと話を交わすうちに、こんな言葉が聞こえてきた。

「体調がよくなったら、必ず会社に戻ってきてね」

仕事もできなかったのに、6か月分の給料が通帳に振り込まれた。後援はそれからも後を絶たなかった。犯罪被害者を支援する別の民間団体からは、整形手術の支援を受けることができた。白っぽいとまではいえなくても、膿は消え、非舗装道路みたいだった顔は、化粧品をつけることができるほど、張りができた。すっかり見えなくなった耳も、確かに人間の耳として生まれ変わった。つらい1年間の整形は無駄ではなかった。

09年10月、退院直後からは心理治療を開始した。「犯罪被害を受けたのは、ソンヨンさんが悪かったわけではない」。心理治療の初日に聞かされたこの言葉が、なぜ、あんなに悲しかったのかわからない。なぜ私はあんなことをされたの。なぜ、よりによって私なの。なんら支援すら受けられないまま、放置され、自分を責めていた時間が頭のなかをよぎった。心の中のしこりが少しずつ溶け出した。

●私は立ち上がった

3年が過ぎた。誰かから「大丈夫なの?」と聞かれたら、たまには背中のほうから一筋の汗が流れだしそうになるが、笑いながら「当たり前でしょう」と切り返すこともある。こんな時、私は自分に鼻先がつんとくるほどありがたい。

年明けからは、再び毎朝服を選び、母親に愚痴をこぼしながら、会社への出社を急ぐ。大学院生の学生証も手にし、カウンセリング心理学を専攻している。これからカウンセラーの資格を取り、犯罪被害者らの傷ついた心を癒すのが私の目標だ。昨年1年間、強盗やレイプなどの凶悪犯罪被害件数は、計13万3900件に上るというニュースを目にした。幸い、犯罪被害者らを扱う法案が、10年改正され、私のような重症傷害者も支援対象に含まれ、被害者の分類も6段階から10段階へと、支援対象が増えたという。これからでもより多くの犯罪被害者らを支えることができ幸いだが、かつての私のようにどこにも入れてもらえず、苦痛の中に放り出されていた人たちがいるのではないか、気になる。

今は、自ら克服しなければならない課題のみ残っている。会社の代表は2年前、懲役15年の確定判決を受け、代表の指示で直接犯行を行った職員らも重刑が言い渡された。彼らを相手取った民事損害賠償訴訟は、依然進行中だ。

夜が明けた。今日も髪をとかし、化粧をする。急いで服を着替え、カバンを手にした。「行ってきます」。靴を履きながら、母に挨拶をする。「ご飯だけはしっかり食べてね。わかった?」。閉まる玄関の扉の向こうから母親の小言が聞こえてくる。12年11月、いつもと変わらぬ出勤だ。

再び家を出るまでに、結構長い時間がかかった。それでも人たちの手助けを受け、立ち上がることのできた私は、ひょっとしたら「恵まれた人」なのかもしれない。

取材記者の言葉

パク・ジョンアさん(仮名)が直接、自分の物語を紹介する形でまとめた記事です。パクさんは、「遅れてしまったが、この紙面を借りて、自分に平凡な出勤の道を取り戻してくれた名の知らない人たちに『感謝する』という言葉を伝えたかった」と伝えてきました。もう一つ、お願いされた言葉があります。「犯罪被害を受けたのは、自分や被害者が悪かったからではありません。必ず元気を出して、乗り切ってください」。



sun10@donga.com