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命を賭けて得た1枚の「合成」家族写真、命同然だったが持っていけなかった

命を賭けて得た1枚の「合成」家族写真、命同然だったが持っていけなかった

Posted July. 09, 2012 06:42,   

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「私の幼年期の記憶の最初のページを埋めるこの話しは、恐らく多くの人がまだこの世に生まれる前の1950年の冬にあったことです」

パク・インスクさんの手記はこう始まる。近所の子どもたちと縄跳びをしていたパクさんは、大人たちが集まってどこかに行くのを見て、ついて行った。

「軍隊が列をなして座った車がゆっくり入ってきて、通りには花束を持った人もいて、持っていない人もいて…。彼らは中腰に立って、不安定な格好で一列に並んでいた。それがこの地を血に染め、1000万の離散家族を生んだ戦争の始まりだったとは、私がどうしてわかり得たでしょう」

パクさんが初めて見た国軍の印象は恐怖だった。パクさんの祖母は、国軍に誰かの家を尋ねられ、火かき棒で方向を示したという理由で、銃殺されそうになった。

「2人の国防軍が祖母を畑に立たせ、銃で狙って、激しく怒った。私は鳥肌がたった。私は走ってかけより、祖母にしがみついて、『私のおばあさんを殺さないで下さい』と叫んだ。町の大人たちも出てきて頼み込んだ。幸い、祖母は死の境で救われた」。パクさんは、当時祖母にかけよって転んでできた傷を見る度に、当時の緊迫した状況を思い出す。

一生忘れることのできない国軍もいた。足の裏に水疱ができたパクさんを「痛くないようにしてやる」とうそをついて、水疱をつぶしてマッチの人で焼いた。びっくりして泣いたが、効き目があったのか、その日から駆け回ることができた。彼は、菓子とアメをくれた。

「私は彼が好きだった。(彼は)私がおいしそうに食べるのを見ていた。夕方になるとよく空を見上げて瞑想にふけっていたが、私を呼んで歌も教えてくれた。その歌は、父と北と南に離れて寂しくなると、一人で歌った歌だった」

軍人の2つの顔が共存する戦争は、大人には生死の別れ目だった。一夜過ごせば世の中が変わることもあった。しかし、子どもはあくまでも子どもだった。

「4人が集まって何の論争をしているのか、危険は時々刻々近づいているのに、終わらなかった…。『お母さん勝て、お父さん勝て。お母さんが勝てば、私の中指につけ』。寒くてブルブル震えながら、弟はこんないたずらをしていた。隣の家のドンウォンのお父さんがやって来て、『パク先生、何してるんですか。町の皆が逃げているのに、早く行きましょう』」

畑の端のパクさんの家族も避難した。父親との別れが待っているとも知らず、ただ逃げた。パクさんは、祖母にほめられたくて、一人で歩くと意地を張ったが、疲れて父親に背負われた。短い避難の道は、ある川の前で終わった。

「小さい船に家族の半数しか乗れなかった。分かれて乗ればいいと言われても、父は応じなかった。ここで別れることはできなかった。皆その船に乗っていたら、父と離別することはなかったでしょう…」

川を渡ることができなかったパクさん家族は、再び故郷の家に向かった。その時に会った避難民の列の中から誰かが走ってきて、「ああ、パク先生ではないですか」と声をかけた。

「『パク先生とは誰だ』と言って、(国軍)憲兵が銃床で父を小突いた。祖母と母は叫んで追いかけたが、人込みをかき分けて行くことができなかった。子どもたちは泣いていた。南に行けばどこかで会えるはずだ。大人たちはそう考えたが、それが(父との)永遠の別れだった」

パクさんは脱北した後、06年8月にソウルで、夢に描いた父親を探し当てたが、すでに意識不明で、人工呼吸器で生命をつないでいた。パクさんが訪ねてから約20日後、父親は娘が来たことも知らずにこの世を去った。このような胸の痛む離別と分断の悲劇は、パクさん家族だけのことではなかった。

「パク○○が(人民軍)小隊長になった。家族との再会での行動が、高い思想的評価を受けたのだ。父と兄が越南したという話を聞いたパク○○が、息子を抱きしめたいと思う母親を振り払って、決別した」

透徹した思想性を見せたパク○○も、「越南者家族」というレッテルから抜け出すことはできなかった。自ら深い山奥に入った。パクさんはソウルに来て、パク○○の兄を訪ねた。

「妹が北朝鮮で最も貧しい所で今も生きていると聞いて、彼は目に涙を浮かべ、父が亡くなった時の遺言で、『私が死んだ後、○○に会ったら、この金を渡してくれ』と3000ドル(約340万ウォン)出したと言った」



zsh75@donga.com