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[オピニオン]日本に対する認識

Posted April. 09, 2012 09:35,   

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今年は壬辰の年だ。60年周期でまわる甲子を基準に、七甲子(420年)前、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が起こった。1592年4月13日だ。朝鮮は当時、倭と呼んだ日本の侵攻で、戦争勃発20日で都城漢陽(ハンヤン)を失い、7年間、全羅道(チョンラド)と平安道(ピョンアンド)の一部地域を除く全国土が蹂躙された。壬辰倭乱は韓国人にトラウマとなった。小さな島国と見くびっていた日本に「してやられた」からだ。

◆問題は、壬辰倭乱の前も後も日本を見くびる意識が大きく変わらなかったという点だ。今日、韓国人は、当時の先祖が日本の国力と情勢を十分に把握できず、戦乱を未然に防ぐことができなかったことを痛烈に批判する。日本が、韓国より領土も広く、人口も多いという点を承知している。しかし、経済大国としての日本の認識は、明治維新以降に限定される。過去の日本に対しては、韓国に文物で後れをとった小国という発想から容易に抜け出すことができない。

◆これは錯覚だ。壬辰倭乱当時、日本はすでに軍事上、世界最強国だった。当時、日本が保有していた火縄銃は50万丁だった。ヨーロッパ大陸が保有する全体銃器を凌駕する数だ。長年の戦国時代を経て、戦闘力を備えた正規軍が30万人にのぼった。壬辰倭乱当時、朝鮮に投入された兵力はその半分の15万人だった。一方、朝鮮の正規軍は5万〜6万人しかなかった。当時、朝鮮の人口は1000万にも満たなかったが、日本はその倍を上回る2000万に迫った。日本の人口が韓国に追いついたのは統一新羅時代だった。

◆韓日の格差は壬辰倭乱後さらに広がる。徳川幕府になって日本の首都となった江戸(今の東京)は、18世紀には人口100万の世界最大都市となった。当時、清の首都の北京やフランス・パリの人口が50万、英ロンドンの人口が80万だった。漢陽の人口は30万にすぎなかった。日本は、この時すでに歌舞伎で世界初の回転舞台を発明し、「そば」や「すし」といった世界初のファーストフードを作った。日本が近代化の模範生になった背景には、このような国力が隠れていた。韓国が傷ついた自尊心を慰めることもいいが、実情以下に日本を蔑むことも慎む時がきた。

権宰賢(クォン・ジェヒョン)文化部次長 confetti@donga.com