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[オピニオン]崇礼門の復元

Posted February. 11, 2010 09:26,   

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08年2月10日夕方、多くの国民は「火はすぐに消える」という気持ちで、燃える国宝第1号を見守った。この「まさか」は、崇礼門(スンレムン)の懸板が落ちた時、胸に溢れる恐怖に変わり、2階の楼閣が崩れた時は、不吉に変貌した。放火犯のチェ某氏が、「土地再開発の補償金への不満から、腹立ちまぎれに火をつけた」と言った時、大きな怒りを感じた。

◆国が栄えるには、混乱があってはならない。儒学では、混乱をなくすには「仁義礼智信」の五常の徳を備えなければならないと強調する。そのため、朝鮮王朝を開いた李成桂(イ・ソンゲ)は、漢陽(ハンヤン)都城の東大門(トンデムン)を弘仁門(ホンインムン)、西大門(ソデムン)を敦義門(トンイムン)、南大門(ナムデムン)を崇礼門(スンレムン)、北門を粛清門(スクチョンムン=智ではなく清を使った。現在の粛靖門)、都城中央の鐘楼を普信閣(ポシンカク)と命名した。「仁義礼智信」から取ったのだ。正門の崇礼門は、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で日本軍が漢陽に入城した際、加藤清正に攻められ、丙子胡乱の時は太宗が出入りするなど、戦乱を経験したが、朝鮮王朝(505年)より長い610年も持ちこたえた。にもかかわらず、韓国人によって崩れたのだ。

◆日本と欧州にある城は、周囲に掘りを設けて、大きな石で頑丈に建てられており、威圧感を与える。平地にある韓国の城は堀がなく、小さな石で築造されており、弱い感じだ。韓国は、山城を建て、戦乱が起これば山城に移って抗戦したため、平地の城は頑丈に建てられなかった。漢陽城は、戦乱の備えというよりも、政治と生活空間としての比重が大きく、世界的にも珍しく柔和な姿となった。

◆崇礼門が燃えた時、日本の新聞は1面で報じた。それだけ、崇礼門の象徴性が大きかった。10日、崇礼門の復元工事が始まった。火災の時に崩れなかった部材はそのまま使用し、燃えた部分だけ新たに作る。このため、金剛松を切り、鍛冶作業場を作って、朝鮮時代のものと同じ釘やちょうつがいを作る。文化財庁は、崇礼門に連結する城壁の一部を復元し、ソウル市は西大門も蘇らせる予定だ。日本の3大名城とされる大阪城と熊本城の天守閣は、近年復元され、多くの観光客を集めている。復元された崇礼門とソウルの城郭が観光資源になり、世界文化遺産に登録されることを望む。そうしてこそ私たちの自尊心を取り戻すことができる。

李政勲(イ・ジョンフン)論説委員 hoon@donga.com