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1929年に創設された東亜水泳大会—1931年に誕生した東亜マラソン大会

1929年に創設された東亜水泳大会—1931年に誕生した東亜マラソン大会

Posted March. 29, 2007 07:49,   

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01年4月24日、釜山サジク室内水泳場で行われた第73回東亜(トンア)水泳大会。小学生部自由形男子100メートルに出場したトソン小学校の12歳の少年は、1分00秒65で金メダルを獲得した。翌日は自由形200メートルでも2分09秒65でトップに立った。

少年は3年間のブランクの後、テチョン中学校3年生の時の04年、東亜水泳大会でもう一度名前を知らせた。自由形200メートル(1分55秒23)と400メートル(4分05秒35)に出場して2冠王に輝いたもの。続いて京畿(キョンギ)高校1年生だった05年の大会では200メートル(1分50秒41)と400メートル(3分50秒37)で相次いで韓国新記録を塗り替えて、大会最優秀選手にまで選ばれ、一気に国内水泳の看板スターとして位置づけられた。

あれから2年後。自分の限界がどこなのか知らない「水泳天才」の朴泰桓(パク・テファン、18、京畿高3年)は25日、豪州のメルボルンで行われた第12回世界水泳選手権大会自由形400メートルで3分44秒30のアジア記録を立て、アジアの男子選手としては初めて自由形の種目で金メダルを手にしたのに続いて、27日には自由形200メートルでも1分46秒73のアジア記録で銅メダルを獲得する快挙を成し遂げた。

朴泰桓は昨年、年末に開かれた06ドーハアジア大会では3冠王(200、400、1500メートル)に輝いた。

東亜水泳大会は1929年9月1日、京城帝大(ソウル東崇洞)水泳場で行われた第1回前朝鮮水泳競技大会が母胎。1923年に創設された国内最初の女性総合スポーツ大会の東亜庭球大会、1931年に誕生した東亜マラソン大会と共に我が民族に夢と希望を与えるために作られた大会だ。

東亜水泳大会の創設は、韓国の水泳界に大きな影響を与えた。大会が開かれれば、全国から綺羅星のごとき水泳選手と関係者らが一堂に会し、それが同年8月朝鮮水泳倶楽部の誕生につながった。朝鮮水泳倶楽部は朝鮮水上競技協会を経て、1960年、大韓水泳連盟に変身した。

日帝による強制占領期と韓国戦争などで大会の開催に紆余曲折は多かったものの、東亜水泳は長い年月にわたって、相変わらず韓国水泳の脈を受け継いでいる。1979年まで全国男女学生水上競技大会で開かれたが、1980年から東亜水泳大会に変わった。

1970年代の趙五連(チョ・オリョン、55)、1980年代の崔允姫(チェ・ユンヒ、40)らもこの大会を通じて掘り出された。趙五連は1970年バンコク・アジア大会と1974年テヘラン・アジア競技男子自由形400メートルと1500メートルで相次いで2冠王に輝き、「アジアのオットセイ」と呼ばれた。崔允姫は1986年ソウル・アジア競技女子背泳ぎ100メートルと200メートルで2冠王に輝いて、「アジアの人魚」というニックネームが付けられた。

1991年3月17日、ソウル蚕室(チャムシル)オリンピックメインスタジアムを出発して城南市雲中洞(ソンナムシ・ウンジュンドン)を回ってくる42.195キロのフルコースで開かれた第62回東亜マラソン大会は、韓国マラソンの大きな星になる2人の有望株が登場して関心を集めた。21歳の同い年の黄永祚(ファン・ヨンジョ)と李鳳柱(イ・ボンジュ)。2人は当代最高の選手だった金ジェリョン、李チャンウと競争した。黄永祚はフルコースデビュー戦だったが、金ジェリョン、李チャンウに続いて2時間12分35秒の当時としては驚くべき記録で3位に上がる快挙を成し遂げた。2番目のフルコース挑戦だった李鳳柱は2時間16分56秒で15位にマークした。

「マラソン天才」の黄永祚は、その年、英国シェフィールドで開催された夏季ユニバーシアードで優勝した後、1992年、スペイン・バルセロナ五輪でも金メダルを獲得して、一気に世界的なスターに浮上した。

「国民マラソンランナー」の李鳳柱は大器晩成型だったが、亀のような誠実さで長くファンに愛されてきた。李氏は1993年に開かれた第64回東亜マラソンでも12位と振るわなかったが、同年12月、ホノルルマラソンで優勝し、国際マラソン大会に初めて格上げされた1995年第66回東亜マラソンで優勝して世界に名前を知らせた。続いて李鳳柱は1996年米アトランタ五輪で銀メダルを取り、01年世界最高の権威を誇る英国ボストンマラソンで優勝した。1998年バンコクと02年釜山(プサン)アジア競技大会の2連覇も達成した。

黄永祚は1996年、26歳の若さで引退したが、李鳳柱は「走れる時まで走る」というファンとの約束を守った。李鳳柱は18日に開かれた07ソウル国際マラソン大会兼第78回東亜マラソン大会ではマラソン選手としては「還暦」と呼ばれる37歳の年にも2時間8分04秒の個人の三番目の最高記録で優勝して、国民に「年齢は数字に過ぎない」というメッセージを伝えた。

1931年3月21日、ソウル光化門(クァンファムン)と永登浦(ヨンドゥポ)を往復する14.5マイル(23.2キロ)の競走大会が開かれた。高麗(コリョ)陸上競技会が主催して東亜日報と朝鮮体育会が共同後援したこの大会が、ほかならぬ東亜マラソンの始まりである「第1回マラソン競走大会」だ。

日帝強制占領期のマラソンは朝鮮人の鬱憤を慰め、希望を伝えた最高の人気スポーツだった。東亜マラソンが誕生したのはスポーツ本然の意味もあったが、民族意識の高揚といった使命感が大きな理由だった。

初大会では14人の出場者のうち、養正高普の看板スターの金ウンベが1時間22分05秒で優勝した。1932年第2回大会では「五輪の英雄」孫基禎(ソン・ギジョン)が登場した。新義州(シニジュ)から来た20歳の新人・孫基禎は2位に上がり、3回の大会の時は、全ての健脚らを退いてトップに立った。孫基禎はこれを土台に1936年ベルリン五輪男子マラソンで2時間29分19秒の世界新記録で月桂冠をかぶり、韓民族の威勢を世界に知らしめた。

東亜マラソンがさらなる跳躍をして、韓国マラソンに新しい力を吹き入れたのは1964年。その時から東亜マラソンは光化門を出発点にして京仁(キョンイン)街道を走るフルコースに再誕生して、韓国マラソンを本格的な記録競争時代に突入させた。

1927年マ・ボンオクの3時間29分29秒から2000年李鳳柱の2時間7分20秒まで、20人の健脚らが28回韓国記録を塗り替えた。このうち韓国記録は東亜マラソンだけで10回出た。特にフルコースに転換した1964年からは19回の韓国記録のうち10回が東亜マラソンで出た記録だ。

2003年にソウル国際マラソン大会に衣替えした東亜マラソンは、2万人が越えるマスターズ参加者らが参加して楽しむ「祭りの場」として、韓国マラソンに活力を吹き込んでいる。



yjongk@donga.com