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韓国語の守護神として一生を送った李熙昇先生

韓国語の守護神として一生を送った李熙昇先生

Posted March. 14, 2007 07:08,   

한국어

李熙昇(イ・ヒスン)先生は朝鮮(チョソン)時代末期(1896年)に生まれ、国語学者、詩人、文章家として活動しながらこの国の知識人として生涯を送った人ィだ。同書は、著者が80歳を過ぎて、自身におきた出来事を中心に書いた自叙伝だ。大韓帝国や日本植民地時代の36年間、第1次・第2次世界大戦、米軍政や韓国戦争、自由党と民主党の政権、軍事革命や共和党の政権を経験しつつ、苦難の歳月の中で韓国文化、とりわけ国語を守って育てなければならないとの一念で生涯を送ってきた内容を記録した著述だ。

日韓併合で国を失った少年が見聞きした出来事や、当時は耳慣れない分野だった言語学を勉強する決心で家出したこと、漢城(ハンソン)外国語学校を皮切りに、さまざまな学校を経て、中央(チュンアン)学校を20歳になってようやく卒業したこと、3・1運動(日本植民地支配からの独立運動)の時、太極旗(テグクキ=韓国の国旗)を描いて配りながら万歳を叫び、同志たちと共にガリ版で闇新聞を作って配ったこと…。このようなエピソードが立志伝的な記録として繰り広げられている。

浪人までして朝鮮語文学科のある京城(キョンソン)帝国大学予科に、30歳という晩学学生として入学し、やがて言語学の勉強という夢を成し遂げ、大学でのロマンを楽しみつつ、友人たちと交流したことは、李氏の人生に潤いを与えた下地となっただろう。梨花(イファ)女子専門学校の教授として女性文人たちを養成したこと、朝鮮語学会に参加して綴字法の統一案や標準語査定、外来語表記法の統一案を制定するのに中心的な役割を果たしたことは、今日、私たちが享受している国語生活を考えると、末永く称えられるべきことだ。

しかし、朝鮮語学会事件による3年間の受刑期間中、ひどい拷問を受けており、飢餓や病気に勝てず、同志たちが次々と死んでいったことは個人の苦難であり、韓国文化にとっての試練だった。刑務所から出るや、日本帝国の国語抹殺政策によって瀕死の状態にあった国語を蘇らせるために駆けずり回り、京城大学の建て直しのための仕事を請け負って教授となったことは、韓国文化の再建のためには幸いであったといえよう。

この国の悲劇の断面をうかがわせる出来事も多い。韓国戦争中、9・28ソウル奪還の前日の戦闘の最中、真夜中に自宅で火事が起こり、家族全員が着の身着のままで抜け出したことや、1・4後退のとき、釜山(ブサン)まで100里を徒歩で進んだが、やっとのことで母親の臨終に会うために引き返し、散らばっていた家族たちとようやく再会したことがそれだ。

李氏は4・19革命の時には教授たちのデモの先頭に立って、李承晩(イ・スンマン)大統領を下野させた。これは李氏の学者精神を如実に示す出来事だ。定年退職後は東亜(トンア)日報社長や私立大学の大学院長、東洋学研究所長を歴任するなど、気楽に休む暇すらなかったことは、李氏が優れた能力の持ち主だったからでもあるが、身についた勤勉さを代弁する事実でもあった。

本書は一度手にしたら、最後まで読み終わらないわけにはいかないほど、書中に盛り込まれている出来事は苦難に満ちており、文章は平易だ。何よりもその中に流れている精神が私たちに感動を与える。本書は南山(ナムサン)町の貧しい学者の学者精神が20世紀を経て、現代の知性として生まれ変わった様子を、ありのままに見せてくれる著述だといえよう。