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国内初「難民家族の再会」実現 ミャンマー出身のブリキさん

国内初「難民家族の再会」実現 ミャンマー出身のブリキさん

Posted November. 14, 2006 07:43,   

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「何ヵ月か後にはきっと会える」

そう思って別れた2人の息子と再会するのに4年かかった。昨年12月、韓国政府から難民の地位を認められたミャンマー出身のブリキ・アシュさん(仮名・43)は、4年前に生き別れざるをえなかった2人の息子に会えると思うと、夜よく眠れないと言う。夢にも会いたかった2人の息子が今月下旬、韓国へ来る予定だからだ。

国内居住難民に海外の家族を連れてきて一緒に暮らせるようにする「難民家族結合」が国内では公式的に初めて実現する事例だ。国際移住機関(IOM)、国際赤十字社、法務部、外交通商部、国立科学捜査研究所、大韓赤十字社など、内外の諸機関が10ヵ月にわたって極秘裏に進めた「家族再開作戦」が実るようになったものだ。

▲18年の流浪生活と生き別れ〓ミャンマーの少数民族出身のブリキさんが故国を離れて、不法滞在者の身分で他国をさ迷ってもう18年になった。1988年8月8日、ミャンマーで軍事政権に抵抗した「8・8抗争」が勃発した時、ブリキさんは25歳の大学生だった。

デモに参加したことで、逃避生活を始めるようになり、自分のせいで父親と叔父が当局に連行されて拷問を受けた。この過程で叔父は死亡し、父親も監禁された。身辺に脅威を覚えた彼は、小さい木船に乗って、タイに密入国した。

タイで同じミャンマー出身の不法滞在の女性と結婚して、2人の息子をもうけたものの、働き口が見つからなくて生計を立てるのが難しかった。ミャンマー政府の少数民族への迫害はさらにエスカレートして、故国へ帰るわけにもいかなかった。

14年間、タイで艱難の時代を送った彼は、02年、2人の息子を残して日本へ密入国した。妻とも別れた。今年11歳の上の子は、バングラデシュの難民村に、9歳の下の子はタイに住んでいる母方の叔父の家に任せられた。「しばらくすると、また会える」と言って、2人の息子を抱き締めた瞬間が思い出されると、今でも涙が出る。

相変わらず不法滞在者だった彼は、日本でもなかなか働き口を探せなかった。子供を連れてくるどころか、自分が食べていくことすら厳しかった。その年11月、彼は日本内のミャンマー少数民族協会の助けで、韓国へ向かった。翌年、彼は韓国政府に難民の申し込みをし、2年余りの審査を経て、昨年末、辛うじて難民の地位を認められた。

最初、彼はイスラム寺院で食事の用意をしたり掃除をしたりしながら細々と生計を立てた。日雇い労働者として転々としていた彼は、製造メーカーに就職してからやや暮らし向きがよくなったものの、子供を連れてくることは夢にも考えられなかった。

▲極秘裏に進められた家族再開作戦〓今年1月、嬉しい知らせがあった。IOMが彼の気の毒な事情を知り、韓国政府に対し彼の代わりに「家族結合の申し込み」を出したもの。しかし、簡単ではなかった。不法滞在者の身分の時に生まれた2人の息子には出生証明書や身分証明書がなかった。難民地位の認定はもちろん、入国そのものが不可能だった。

今度は大韓赤十字社が進んで出た。「2人の息子が滞在している国の韓国大使館で入国保証の文書を送ってくれば、国際赤十字社で旅行証明書を発給する」と法務部に知らせた。国際赤十字社はバングラデッシュとタイにいる2人の息子の遺伝子サンプルを採取してきた。最初は、難色を示していた法務部は外交部を通じて、入国保証公文を送ってあげるよう協力を要請する一方、遺伝子サンプルを国立科学捜査研究所に送って、実子確認の手続きを踏んだ。

10ヵ月にわたった「難民家族再開作戦」は、ややこしい手続きをすべて終えた状態だ。法務部の関係者は、「2人の息子が入国すれば、難民として認めて、一緒に暮せるようにする計画だ」とし、「韓国が国際的な人権規約を遵守する国だという点を世界に知らせる契機になるだろう」と述べた。



woogija@donga.com