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魂の飢えが招く不治の病「収集マニア」

Posted January. 28, 2006 04:08,   

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「やせ細った小さな品物1点!上品に言えば、ミイラ状態で保存された筋肉1点!死後に死体から切り取られたもの!」

1969年10月29日、米ニューヨークにあるオークションのクリスティ社に、珍しい品物が登場した。その名も「ビニャーレの有名なナポレオン遺骨コレクション」。

この偉大な人物の最も隠密な部位は、10ポンドでオークションが始まり、1万4000ポンドで落札された。落札者は、ペンシルバニアから来たブライアン・ギメルソン氏。彼が、ナポレオンの代物(?)を買おうとした理由は、自分の妻の名前がジェセフィンだからだという。

遺骨コレクションは、中世に絶頂に達した。キリストが最期を迎えた十字架や彼の身体に打ち込まれた釘はもとより、聖母マリアの乳房も取り引きされた。キリストの皮膚は、多くの場所で発見され、流通した。にせ物が無数に登場し、数多くの真偽論争が巻き起った。

フィリップ・ブロム著作の『To Have And to Hold』(2002年)は、収集という、その奇妙で美しい強迫の世界へ読者を引き込む。

中世の遺骨コレクターから今日のキッチュ・コレクターに至るまで、彼らのコレクションとその秘められた個人史を紹介し、所蔵品に込められた時代の風景や思想を追跡する。ミクロ史でありマクロ史的な文化史だ。

人々は、品物を収集したばかりではなかった。世のすべての知識を盛り込んだ「記憶の劇場」を設計したカミロ、多くの女性と恋をしたカサノバ、全世界のオペラ公演を後援し、「これは私のオペラだ」と叫んだビラ…。彼らもコレクターだった。

著者は、収集行為の陰にうごめく人間の心理を読み取り、収集本能は、本質的に人間の実存の問題だと言う。「それは死と消滅の恐怖と闘うことだ。コレクターの情熱は、記憶の混沌のそばにある」。

ローマ時代以来、少数の特権だった収集活動は、ルネサンスに至り、広まっていった。社会は徐々に世俗的になり、「いま、この瞬間」の退廃にあふれた。詩人はこのようにうたった。「できる時に、バラの花のつぼみを集めなさい。/時間は今も流れています。/今日、微笑んでいるこのつぼみも/明日には死んでしまうから…」(ロバート・ヘリック)。

花が枯れ落ちることが、永遠の世界への進入ではなく、取り返しのつかない喪失を意味する時、それで本当に終りになる時、死がますます大きく映る世界で、人々の心は、バラの花のつぼみそのもの、物質世界そのものに向かった。収集マニアはその象徴であった。

人々はいったいなぜ、空っぽのマッチ箱や、使用済みの切手や、数十年間一滴のブドウ酒も注がれたことのない空き瓶に、借しみなく金を使うのだろうか。

コレクターには、そこに何かが込められている。聖者の遺骨が天国と不滅をつなぐ橋であるように、彼らはコレクションに、世俗の実存よりも無限に貴重なある世界、超越の瞬間を見るのだ。

そのため、欲しい品物を手に入れることができるなら、いかなる陰謀や盗みもいとわないだろう。全世界を放浪するだろう。喜んで結婚もするだろう。コレクションへの欲求は、殺人を招きさえする。

しかし、収集は決して終わらない作業だ。収集で最も重要なことは、次のコレクションである。品物を手にとって、それをどこに置くか思案する間にも、「飢えた目」は、すでに一歩先を見通している。

コレクターは、自分が探していた品物が魂の飢えを満たしてくれると信じて疑わないが、それに触れた瞬間、魔法は解けてしまう。

「コレクターには『メドゥーサの呪い』がかけられる。生命あるすべてのものは、メドゥーサを見た瞬間、石に変わってしまう。彼女は、死と沈黙の世界に投じられ、絶対に満たされることのない欲望を渇求し、怒り狂う。物質を通じて超越を追い求める者は、メドゥーサの運命を避けることはできない…」



keywoo@donga.com