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「同性愛」を乗り越えて「普遍的な愛」を見せてくれる「王の男」

「同性愛」を乗り越えて「普遍的な愛」を見せてくれる「王の男」

Posted December. 22, 2005 03:03,   

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「ただ一つの場面でも抜き取ってみたら…?、この映画の中で」。それは五臓六腑の中で一つを切り取るような危険極まりないことになるだろう。

映画『王の男』はこのように、ある一瞬間も切り取れないほどしっかりしている。この映画は、「ビジュアル」、「スタイル」、「4億、5億ウォンのギャランティー」、「100億ウォン台の天文学的な制作費」、「海外ロケ」、「血気旺盛なスター監督」などなど、お洒落でもっともらしい言葉の重さに押されて圧死直前の状態にある最近の忠武路(チュンムロ、映画制作の街)に、新鮮なイメージを投げかける。それはまさに「基本」の重要性だ。

朝鮮時代、男寺党の芸人チャンセン(カン・ウソン扮)は両班の絡繰り人形に転落してしまった自分たちの人生を捨てて、さらに大きな遊びの場を求めて、心の奥から愛する仲間の芸人コンギル(李ジュンギ扮)と一緒に漢陽(ハンヤン)に入城する。生まれつきの才能で芸人集団のリーダーになったチャンセンは、燕山(ヨンサン、チョン・ジンヨン扮)と彼の愛妾の緑水(ノクス、カン・ソンヨン扮)の愛情行為を皮肉り風刺する遊びをして、町中の名物になる。チャンセン一行の公演が気に入った燕山君は、宮内に芸人の居場所を提供してコンギルを意味深い視線で眺め始め、嫉妬心に燃える緑水はある種の陰謀を企む。

「演劇的」という言葉は少なくとも映画では「非現実的に誇張された」ぐらいの意味を持つ否定的な言葉として使われてきたのが事実だが、『王の男』では、この言葉の意味も痛快に覆す。この映画は「リアリティーなんかを考える暇がないほど強力な吸引力を持っている」という点で、とても「演劇的」だ。00年初演以後、国内各種演劇賞を席巻した話題の演劇『イ(爾)』を原作にしたこの映画は、真に賢くも原作が持っているしっかりしたドラマや緊張感溢れる台詞と時には結婚し、時には離婚する方式を通じて、原作の存在感をずっと飛び越えてしまった。

チャンセンとコンギルが繰り広げるハラハラさせる綱渡りのように、この映画は滑稽とペーソスの間で、権力欲と愛欲の間で絶妙な一本綱渡りをすることに成功している(チャンセンとコンギルが一緒に一本綱を渡る最後の場面は、「今年のラストシーン」として遜色ない)。チャンセンとコンギル、燕山の間で絡み合った愛が同性愛という「特別な」愛を超え、切なくて切々たる愛という「普遍的な」感情に置き換えられるのも、この映画が観客の感情の左右しながら、喜びと悲しみが実は同じ母の子宮の中で育った一卵性双生児のような存在であることを気付かせてくれたおかげだ。

チャンセン一行が繰り広げる遊び劇、コンギルが燕山のために公演する人形劇のような「映画のなかの演劇」の要素は、それだけでも立派な見ものである。こうした場面は、いつの間にかストーリーの主要な流れと折り合わされて、時には人物の感情を証言し、時には人物の運命を予言する。「わずか」44億ウォンをかけただけで、これほどのカラフルで華麗なビジュアルを作り出したという事実が信じられないだけでなく、このようなビジュアルは、登場人物が持つ心情の奥深くまで鋭く突きこむという真正性溢れる演出に支えられ、力強い生命力を得る。

臍さえ絶妙にきれいな「魅惑的な男」李ジュンギは、熟していないリンゴのような新鮮さが目立ち、カン・ウソンはすんなりと耳に入り込む発声が時代劇を通じてさらに輝く。いつもうまくやってきたため、かえって注目を受けられなかったチョン・ジンヨンは、爆発寸前の密度高い無表情で観客を圧倒し、「狂人」ぐらいに解釈されていた燕山の平らだったキャラクターを再解釈した。彼らの演技がかもし出す強力な磁場は、結局観客にとって映画の中のどの人物も憎めなく、哀れの情を感じさせる。もしかすると、この世の全ての男は『王の男』の中の男のように、悪いやつであれ良いやつであれ、みんな自分の中に一塊の悲しみと恨みを抱えて生きているのかも知れない。

監督は『黄山伐(ファンサンボル)』の李ジュンイク氏。29日封切、15歳以上観覧可。



sjda@donga.com