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[オピニオン]平等と慣習

Posted May. 23, 2005 03:32,   

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1831年に米国を訪れたフランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルは、「民主主義の実状」を発見した。彼が『米国の民主主義』という本で明らかにした民主主義の根本は、「条件の平等」に対する熱望である。条件の平等は、近代社会革命の理念的原理であり、実質的内容でもある。ところで、民主主義の原動力である平等に対する熱望は、危険性と可能性をいずれも抱えている。

◆民主主義は、無秩序と奴隷状態という2つの危険を持つという。「条件の平等」は、社会構成員を結合する伝統、権威、位階秩序を解体させることで、無秩序と「個人主義」を生む。しかし、孤立した個人は、たちまち恐怖に包まれ、大衆を権威の主体とみなし、その莫大な権威に服従する。逆説的にも、新しい形態の専制政治が登場するのだ。無分別な個人主義は、世俗的快楽にとらわれる物質主義を拡散させる。

◆しかし、民主主義のこのような「運命」は、絶対的ではない。トクヴィルは、平等の原理が奴隷状態と自由の中でどちらに傾くかは、全面的に人間の努力にかかっているという。多数の横暴を阻止する司法、地方自治、選挙などは、健全な民主共和政を守る制度と法律である。より重要なことは、社会的慣習(mores)だ。自発的な結社、自由な言論、物質主義を警戒する宗教、節制を教える教育、伝統を受け継ぐ家庭は、急進的な平等の弊害を阻止する塞なのである。

◆5月は子供の日、父母の日、先生の日、釈迦生誕日、5・18民主化運動記念日など、多様な記念日で一杯だ。偶然であるともいえる。しかし、トクヴィルの観点から見れば、家庭、教育、宗教、民主主義は、緊密な関係を持つ。愛と自己犠牲を教える家庭、道徳的権威を掲げる教育、物質主義のむなしさを悟らせる宗教は、「条件の平等」に対する熱望が生む危険を減らす。健全な民主主義のために、「社会的慣習」という「平等の条件」を振り返る機会でもある。

柳弘林(ユ・ホンリム)客員論説委員(ソウル大学教授、政治学)honglim@snu.ac.kr