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キラー?固定観念を捨てろ 映画「ボーン・スプレマシー」

キラー?固定観念を捨てろ 映画「ボーン・スプレマシー」

Posted August. 11, 2004 22:39,   

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記憶喪失症にかかった前職CIA所属キラーのジェイソン・ボーン(Jason Bourne、マット・デイモン扮する)。追跡者を避けて恋人のマリー(フランカ・ポテンテ)と一緒に逃避を続けるが、追いかけられている理由を知らない彼は毎晩悪夢にうなされる。繰り返されるが、はっきりしない悪夢は誰かが殺される現場にいる自分の姿だ。結局、マリーが殺されると、ボーンは復讐のため、自分をいじめてきた組織を逆に追跡し始める。いろいろな手がかりを集めてパズルをあわせていったボーンは、自分がロシア下院議員のネスキ夫婦の死と関わっていることに気が付く。

映画「ボーン・スプレマシー(The Bourne Supremacy)」は02年封切られた「ボーン・アイデンティティー(The Bourne Identity)」の続編で、アクションスリラーというジャンルとともに「私は誰なのか」というキラーのアイデンティティ問題を「二つの顔」として描いた。

この作品は「ボーン・アイデンティティー」の延長線上で少しの変奏を試みる。映画のポイントは前編に続いて同じ役に扮したマット・デイモンとポール・グリーングラス監督の再会。グリーングラス監督は1972年発生した北アイルランドの流血事態をドキュメンタリー技法で描いた映画「ブラディー・サンデー」で好評を得たことがある。

監督が商業映画としてのおもしろさを維持しつつ、貫こうと努力した点はキラー映画の慣習的想像力からの脱皮。彼が効果的に提示した「材料」はハリウッドで一番模範的で知的な青年の一人として評価されているデイモンのイメージと「キラーのレッテル」を貼るには不似合いの彼の顔だ。デイモンは「007シリーズ」に登場するボンド型のあつかましいカリスマを持っているわけでもなく、時にはお洒落に誇張されてきたほかの映画の中のキラーとも一味違う。伝統的なキラーのイメージとはかけ離れている彼の平凡さは観客に「作られた」キラー映画ではなく、「現実的な」事件を見守っているという錯覚を覚えさせる。

「ハンドヘルド(カメラ持って撮ること)」技法で撮影されたリアルな画面と心臓搏動のように聞こえてくるビート中心のシンプルな音楽も映画のリアリティーを高める。

しかし、この作品をアクションスリラーというジャンル的基準だけで観れば、残念さが残る。1時間近くリアルなアクションと頭脳ゲームで観客を早く追い詰めた映画が、後半になってあまりにも簡単に「秘密の扉」を開けてしまうからだ。映画はCIA幹部が自分の部下を殺し、事件の実体が公金横領を隠すためのものであることが明らかにされると、緊張の最高潮から一瞬にして墜落してしまう。

これは商業映画を作ったものの、ドキュメンタリー作家として名声を上げてきたグリーングラス監督があきらめられなかった「野心」のためなのかも知れない。記憶を取り戻したボーンは自分が殺害した下院議員夫婦の娘を訪ねて、真実を打ち明ける。

「お母さんがお父さんを殺したわけではない。僕が(二人とも)殺したんだ。どう?ちょっと世間が違って見えるか…」。20日封切り、15歳以上観覧可。



金甲植 dunanworld@donga.com