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[書評]資本の催眠から目覚めよ

Posted December. 29, 2001 14:02,   

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フランスのクォリティ・ペーパー「ル・モンド」の姉妹月刊誌「ル・モンド・ディプロマティーク(全世界で120万部発行)」は、前世紀に対する診断とともに、21世紀を展望し代案を提示してきた。中道左派的な日刊紙、ル・モンド紙よりも、はるかに進歩的なこの国際政治専門の月刊誌(1954年創刊)は、時には新自由主義、反覇権主義を標榜することで、フランスだけでなくヨーロッパとアラブ世界の左派識者らに大きな反響を呼び起こしている。

「ディプロマティーク」の特徴は、抽象的な理論やアカデミズムに頼らずに、格調高い批判的な論説構成力で、人類が当面した問題を左派の切り口で正攻法で突破しているという点だ。同誌が取り扱うテーマはアングロ・サクソン文化を中心に進められているグローバリゼーションと新自由主義、環境と労働、教育と情報メディア、人権と社会福祉、生命工学とITテクノロジーなど、現代文明が提起する多様な問題のスペクトルを見せている。

この本は「ディプロマティーク」の「見方」というシリーズのうち、「21世紀を考察する」という題名で発刊されたものだ。主なテーマは「プリバトピアをどう克服すべきか」。

私有化(private)とユートピア(utopia)の合成語である「プリバトピア(privatopia)は、20世紀末から本格化した主流イデオロギーの世界化(もしくは全地球化)現象の核心概念である。とすれば、「プリバトピア」と世界化イデオロギーがなぜ問題なのか。筆者によると、新自由主義的なグローバリゼーションは、連帯意識と公共性の破壊、市場による労働の搾取、そして市民意識の薄れと民主主義の衰退に続くしかないというのだ。

この本の筆者の一人であるピエール・ブルデューは、数学的な虚構と巨大な抽象化を通じた新自由主義とは、ある種のファンタスティックな「幽霊」であり、道徳的なダーウィニズムをはらむと主張する。

社会の全方位的な市場化と新自由主義イデオロギーによって、世界は次第に「反教養的」で、「文化破壊的」なハイパー・ブルジョア階級の手で牛耳られ、文化面でデフレーション現象が現われるというのだ。

市場の無限な拡張と極端な私有化は、ハイパー・ブルジョア階級の出現とともに、全世界的にマックドナルド化現象を招く。たとえマックワールドで、人々は政治の自主性を喪失し、順応主義に染まった「ピュトン(自分が飲み込んだ生物と似た形、色に変わるギリシャ神話の動物)」のような存在に変化する。イメージやイデオロギーに慣れ親しんでいる人々が住むマックワールドは、私的な隠ゆがなくなり、利潤の最適化とパノプティコン(円形監獄)の中のような安全だけが保証される空間でしかない。

市民の自主性と公共の利益を保証できない市場は、人間を消費の主体と対象としてのみ把握し、社会を互いを相食む「修羅場」に変化させる。ディニ・ディクロは、金と財貨の波の中で人間としてのアイデンティティーが瓦解すると同時に、後期資本主義の症候群である「自己の消費対象化」現象と大いに「偏執狂」が発生するとしている。「自己の消費対象化」現象は、後期資本主義の存在論的な特性で、すでに人間そのものが資源(再)活用の循環構図に編入され、他の資源のように消費の対象と化する現象をいう。

ガタリはテレビの前で催眠状態にいる視聴者の姿がまさに、理性を失い、他人から孤立している現代人の自画像だと語った。頭脳と肉体が別々に機能する現代人は、生態哲学(環境、精神、社会生態学)の力を借りて生まれ変わらなければならない。しかし、生態哲学の地形で再構成される新たな社会は、垂直の位階ではなく、多中心的な社会、ミクロ・ファシズムやフォード主義が消滅し、特殊性が認められる多元的な社会であり、生態的な責任意識と機械的な創造力が発揮される社会だ。

では、具体的な代案はなにか。

「ディプロマティーク」の代表的な論客、ベルナール・カセンは空虚な理論の構築や華やかなレトリックの代わりに「市民優先の十戒」を提示した。

まず、旧時代の言語と分析の枠組み内では、新たな思考をすることができないため、「人間開発指数」と同じような新概念を取り入れようと主張する。人間や自然環境に害を与えるものはマイナス指数で、その反対はプラスで表示する。

アリストテレスが主張していた市民、すなわち自ら統治することができ、また統治される自立した市民を養成するためには、市場ジャーナリズムや西欧の覇権主義にだけ奉仕するメディア権力から情報と教育を救出しなければならない。

そして市民個人個人が人生の存在意味をじっくり考え、社会での責任と役割を果たすためには、最小限の収入が保証されなければならない。

だが、カジノ資本主義が隆盛し、巨大資本の投機が盛んに行われ、低開発国家の負債が雪だるまのように増える限り、普遍的な市民社会が健康を取り戻すことはできない。このため、金融投機資本は粉砕されなければならず、より平等な多国間貿易協定が締結されなければならない。カセンは市民が21世紀に向けて真の文明プログラムを提示するためには、社会と環境条項を新設、強化し、グロバールな公共領域を確保すべきだ、という発言で結論を結んでいる。

最近、グローバリゼーションの波と新自由主義のイデオロギーのキャッチフレーズの中で暮らしている私たちに、「ディプロマティーク」の識者らの見方は、この一年を整理し、じっくり振り返ってみる省察の機会を提供している。過去の「暴力の世紀」との画然たる決別を願う人類の希望と違って、新千年の最初のページも前代未聞のテロと暴力で染まってしまった。米同時多発テロ事件以降、イスラム世界の過激な「ビン・ラディン化」と、米国の過剰なまでの力の独走はまた、人類進歩の時計を啓蒙以前の水準に戻すような勢いだ。

では、21世紀は依然希望とビジョンの時代になるだろうか、でなければディストピア的な「地獄の黙示録」が再現されるのだろうか。現代文明の懸案は私たちに根本的な問いを提起し、断固たる決断を求めている。サルトルは自由は行動だと述べ、トゥキティデスは「そのまま休むべきか、自由になるべきかを選択しなければならない」と語った。

もちろん、「ディプロマティーク」がヨーロッパの進歩的な左派識者らの主張を多く受け入れ、多分に欧州中心的な事由から完全に自由でないことも事実だ。

だが、彼らが設定する議題は、保守と進歩、左右イデオロギーの二分法を超える普遍的な質問であり、これは社会が均衡の取れた見解を持って21世紀にかならず答えを出さなければならない課題だということは明らかだ。

「プリバトピアを超えて」/著者 イニャシオ・ラモネ外/翻訳 チェ・ヨング