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赤十字の父親

Posted October. 30, 2007 03:28,   

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戦地まで訪ねるとは、いかに意欲が大きかったのだろうか。31歳のアンリー・デュナンが1859年6月にイタリア・カスティリオネ近くのソルフェリーノを訪ねたのは事業拡張のためだった。

アルジェで農場と製粉事業を続くためにはフランス皇帝ナポレオン3世の助けが必要だった。当時、フランスはサルディニア(当時イタリア北部にあった国家)とともに連合軍を構成し、ソルフェリーノでオーストラリアの軍隊と戦闘をしていた。

スイスの豊な実業家であると同時に資産家だったデュナンの親は、彼が幼い頃から経済観念を強調した。彼らは息子が銀行家として社会生活を始めると非常に満足した。デュナンはスイス銀行のアルジェリア支店で勤める時、良いビジネスの機会を見つけて事業家に変身した。ソルフェリーノを訪れたのがアルジェリアで個人事業をしていた時期だった。

しかし、彼はそこで人生を変える「雷のような」状況に出くわす。

「幻想の中の無惨な演劇を見るようだった。地面には4万人にものぼる遺体が散らばっており、手足の切られた兵士らがいたるところで呻いていた」

彼が日記に残した内容だ。デュナンは、ソルフェリーノでもっとドラマチックな生に跳びこむことにした。その晩、彼はナポレオン3世に事業の助けを要請する内容が盛り込まれた請願書を破った。

「私の人生でお金はもう意味がない。助けを求める人々を助けることがもっと重要な価値だ」

彼はソルフェリーノで民間人を集めて何週間も敵も味方も分かたずに負傷者の治療を助けた。連合軍を説得し、捕虜になっていた敵軍の医師と衛生兵たちまで連れてきて一緒に働いた。

胸に熱い情熱を抱いた彼は、1862年に「ソルフェリーノの回想」という本を発刊し、戦時に負傷者の面倒を見る中立団体の設立を唱えた。世界的な救護団体「赤十字」の始まりだった。

1863年に現在の国際赤十字委員会の前身である国際負傷者救護委員会を作ったデュナンは本人の事業にあまり関心を持たず、末年には苦しい生活をしたが、1901年に第1回ノーベル平和賞を受賞する栄光を得た。そのような彼がスイスの山奥の村のハイデンで亡くなった日が1910年の今日(10月30日)だ。

天井知らずに急騰した住宅価格のせいだろうか。お金を崇める風潮が若者たちの間でも拡散している。ソルフェリーノの悟りは何だったのだろうか。



jameshuh@donga.com