Go to contents

水・火・光の都市に華やかな花が咲く

Posted October. 05, 2007 06:37,   

한국어

晋州(チンジュ)は夜の都市だ。いや、水の都市だ。芸術の都市で味の都市。「晋州南江(ナムガン)の流灯祭」に行けば、これを一度に楽しむことができる。

●夜の美しい都市

南江(ナムガン)を見下ろす川沿いの岩の絶壁にある樓台矗石樓(チョクソンヌ)。義妓の論介(ノンゲ)が花びらのように倭将を抱えこんで川水に跳びこんだ岩、義巌がその下だ。

智異山(チリサン)のふもとの鏡湖江(キョンホガン)、徳川江(トクチョンガン)の水を盛って(晋陽湖)くねくね流れて晋州に続く南江。その南江と矗石樓の出会いは絶景といわざるを得ない。

矗石樓の夜の風景は川向こうの竹の森(公園)で見た方が一番きれいだ。鳥の泣き声が昔のままである竹の森の間に照明でもっと美しい南江と矗石樓が姿を現す。

祭りが真っ最中の最近は川上まで派手な流灯で不夜城を成す。竹の森の果てには「千年広場」が待つ。今度は空にほとばしった光が竹に代わる。

南江には二つの橋がある。晋州橋とチョンス橋だ。晋州夜景にこの橋は欠かせない。アーチ型の橋脚を飾った照明と南江水面に映った橋の風情がフランス・パリのセーヌ川に劣らない。

街灯に映ったティビョリ(川辺に発達した長い崖)川辺道路の夜の風景、チョンス橋の水辺を派手な色による踊る音楽噴水も名物だ。毎晩、散歩客を引き寄せる派手な照明の踊る噴水、これだけでも晋州での生活は満足しそうだ。

●水の都市、晋州

晋州と南江は小銭の裏表だ。南江があって晋州城があり、晋州城があって晋州があるため、流灯が晋州に由来することは必然だ。

文禄・慶長の役の時の晋州城を見よう。回りが水に囲まれた恵まれた金城鉄壁だった。南には南江、北には大寺池(テサジ)、東には堀、西にはナブルチョン(川)。困り果てた倭軍は大寺池を埋めて渡江を試みており、城の中の官軍と義兵は流灯を浮かべて彼らを阻止した。

晋州城を囲んだ水は消えたが、それに代わるものがある。晋陽(チニャン)湖だ。南江多目的ダムに造成された湖だが、晋州、泗川(サチョン)、統営(トンヨン)三つの都市の飲料水源だ。

マラソンコースでも有名な湖畔道路も夜景がすばらしい。1年階段(階段365個)のトンネル式の照明、水面照明、水面に映った山をスクリーンに映す照明で晋陽湖の夜景も見物だ。

●教坊文化と大衆芸術の母胎、晋州

「南晋州、北平壌(ピョンヤン)」朝鮮(チョソン)時代に風流客の間に出回った言葉だが、両村の教坊文化、すなわち芸者を指す。

教坊とは高麗(コリョ)の時に始まって1905年まで存続した官妓の養成機関。晋州芸者は「高麗史」に登場するほど早くから有名だったが、「勝二喬(中国当代の最高の美女だった孫策の婦人デギョと周瑜の婦人ソギョを超えるという意味)は、黄真伊(ファン・ジニ)、ホンナン、メチャンなどとともに朝鮮の名妓に入った。

晋州教坊の芸術は晋州の人によって脈が引き継がれる晋州剣舞、閑良舞、教坊グッコリ、船遊樂のような教坊舞にそのまま反映されている。教坊が解体され券番になった後にも、教坊芸能人の「芸術性」はそのまま晋州文化に溶け込んだ。

晋州文化芸術財団のチャン・イリョン副理事長は「詩人の金素月(キム・ソウォル)も師匠から詩の勉強資料として晋州芸者の詩をもらったほど」とし「教坊から始まった芸術的気質は後日、晋州が韓国歌謡の胎動期に多くの作曲家と歌手を排出するのに寄与した」と話した。

「片思い」「木浦(モクポ)の涙」「海の交響詩」の孫牧人(ソン・モギン)、「旅人の悲しみ」「番地のない居酒屋」のイ・ジェホ、「はげ頭のチョンガー」「陸軍の金一兵」のチョン・ミンソプが皆晋州生まれの作曲家だ。27年間で「哀愁のセレナーデ」など1000曲余りを歌った歌手の南仁樹(ナム・インス)も晋州出身だ。

毎年5月に開かれる晋州の論介(ノンゲ)祭はこのような教坊文化をうかがうことができるイベント。晋州教坊舞を含めて晋州五広大(オグァンデ)遊びなどが公演される。その序幕である義巖別祭は1868年(高宗)に始まった国家主導の論介を追悼するための行事だが、現在考証し再現している。矗石樓(チョクソンヌ)の横の論介祠堂「義妓祠」を中心に開かれる。

論介の正義のある死を記念する義妓祠には論介の影幀とともに茶山丁若饁(タサン、チョン・ヤギョン)の文がある。

茶山は「一人のか弱く幼い女性が遂に倭将を死なせ、国に報いることができたとすれば、君臣間の義理が天地間に明かされたことだから、一つの城の敗北ぐらいは心配することがなく、壮快なことと言える」と書いてある。

●味の都市、晋州

晋州の食べ物も教坊文化の産物だ。新羅(シルラ)、高麗、朝鮮と続く間ずっと慶尚道(キョンサンド)の中心村だったお陰で、中央から来た官吏のための歌舞と宴会が絶えなかったのがその理由だ。

智異山と南海(ナムヘ)が近く、慶尚と全羅(チョルラ)の両文化圏の通路にある点も晋州の食べ物文化が発展するのに力になった。

教坊と券番は消えたが、そこで感じることができた食べ物の香と色、味の格別な場がある。日本人の観光客に「大長今(テジャングム)料理体験」コースで有名な韓定食堂のアリラン(代表イ・ソサン)だ。

伝統の五方色と五味を主軸に、濃い味の湖南(ホナム、全羅道地域)韓定食と全く異なる晋州教坊伝統のシンプルスタイル。晋州を見直すことのできる変わった食べ物体験になる。晋州の醍醐味は晋州ビビンバとうなぎ焼きだ。

ビビンバは全州(チョンジュ)が本家のように思われているが、晋州では晋州を本場と考える。これも晋州城の戦いから始まったという主張がある。

晋州式と全州式の大きな差を晋州の人々はユッケ(牛肉刺身)に置く。晋州ビビンバには必ずユッケが載せられる上に、一緒に出るスープも違うとのことだ。

うなぎ焼きは長年の伝統の土俗料理。晋州城門前の南江の川辺のうなぎ街(食堂20余りの所)はうなぎ焼きのグルメ1番地に位置づけられて久しい。



summer@donga.com