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今この場で笑え…次はない

Posted October. 01, 2007 03:08,   

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おもしろい話だ。みんな車にカーナビを取りつけているのに、混んでいる道はもっと混む。カーナビは一番近い道を教えてくれる機械なのに、みんながその機械をつけているから、一番の近道は一番のまわり道になる。カーナビには、どうして一番近い道が一番遠い道になるのかがわからない。だからもちろんカーナビは、こんなに必死で働いているのになぜ生活が厳しくなるばかりなのか、説明なんかできない。

それでは、こんな質問はどうか。「扇子はあるが、紅潮した頬はどこにあるのか/刀はあるが、怒りはどこにあるのか」(「博物館」)。家族アルバムの中に兄弟たちと撮った写真は残っているのに、その笑顔はどこに行ったのだろうか。ポーランドの詩人、ビスワバ・シンボルスカの詩集『終りと始まり』を読むと、私たちがどうして過去や未来に、また、ここではない他のどこかで笑うことができず、今この場でのみ笑うことができるのかがわかる。詩人は、博物館に行ってその事実を知る。詩人にとって、博物館は古い遺物を見せてくれる場所ではなく、およそ100年で跡形もなく消えてしまう人間を見せてくれる劇場だからだ。

博物館は逆説の劇場だ。展示された扇子は、その扇子で隠した、紅のさした頬を見せてくれる。鋭い刃は、その刀をしっかり握りしめ、敵に向かって突き進んだ騎士を見せてくれる。私も、国立中央博物館で半跏思惟像を見たことがある。闇の中で静かにライトアップされた半跏思惟像は、こう言った。私が作られた時代に生きていた人間たちは、塵となって消えた。そんな視点から、私たちは半跏思惟像をながめるとき、その当時の人類全体の涙と笑いを理解しなければならない。

今この瞬間、私たちが幼い子供になっても笑えず、骸骨になっても笑えなければ、どうすればいいか。私たちはだれも、今この瞬間、ここから一歩も逃げることはできない。だから、笑いたければ今ここで笑うしかない。世の中のすべてのナビゲーション、一流大学に入れとさとした先生たち、成功したければ遊ぶなと語った処世書は、すべてまちがっている。幸福への近道はない。私たちは人間だから、今ここで、幸せか、不幸せか、ふたつにひとつを選ぶほかない。

「すべてのものよ、許せ、私が同時にすべての場所に存在できないことを。/すべての人よ、許せ、私がすべての男とすべての女それぞれになれないことを」(「小さな星の下で」)。このような言葉を理解しようと努力することは、遠回りのようで、ほんとうは一番の近道だ。ナビゲーションの逆説、博物館の逆説がこれを裏づける。私が幼いころ、国民総生産(GNP)が1万ドルになれば暮らしがよくなると思っていたが、いまはGNP4万ドルにならなければ暮らしがよくならないと言う。このままでは、私たちは最後までいい暮らしはできないだろう。シンボルスカはうたう。「次はない。今もそうだし/未来もそうだろう。だから私たちは/何の練習もなく生まれ/何の訓練もなく死す」。決して次はないのだ。