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「人間よ、釘を打つのはやめてくれ。私、地球が溶けてしまうよ」

「人間よ、釘を打つのはやめてくれ。私、地球が溶けてしまうよ」

Posted August. 04, 2007 03:39,   

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「自然を保護しよう」

あまりにも耳慣れたスローガン。しかし、その中に隠されている盲点に気が付かないのか。人間は自然を保護できない。数千年間、地球が人類の保護者だった。人間は自然が育てた数百万種の生き物の一つに過ぎない。育てて面倒を見たが、意地悪な「敵」のような子だ。

大地はこれ以上は甘やかしてくれない。老けて疲れきってしまった。米国の生態主義者のヘレン・ニアリングが追求した「調和の取れた暮らし」が壊れてしまったのだ。その時になってようやく親を振り返ってみたアダム。するべきことは保護ではなく、容赦と覚醒だ。そのような意味で「人間はいつごろ再び自然に帰るだろうか」と「暑すぎる地球」は備忘録だ。すでに自然に容赦を求めている人々の経験談だ。一人は自ら罰でも受けるように世俗を離れて森へ向かう。もう一人は我々の暮らしぶりに警鐘を鳴らす。感化が先なのか、福音が先なのか。肌をかすめる恥ずかしい気持ちはどちらも同じだ。

「人間はいつごろ…」は単純だ。文明を捨てて自然に帰化する。電気や水道、時計まで捨てる。小さい小屋で最小限の畑を耕しながら暮らす。1978〜82年の4年間、米ノースキャロライナの深い森で過ごした著者の経験談が丸ごと盛り込まれている。

単純であっても簡単ではない。寂しさは最大の敵だ。「孤独が骨の奥まで染み込んでくる瞬間、私はまだまだ完全に一人で過ごしているわけではないということに気づく」。独り言を淡々と受け入れ、時間を忘れるべきだ。鹿と鳩、花と木のように森になる方法を学ばなければならない。一人で戦う著者にヘンリーD.ソローの随筆「ウォールデン・森の生活」は一筋の光だった。自分より100年あまり先立ち、自然の中で暮らした記録は聖書であり生存書だった。「私は一人でいることが大好きだ。これまで孤独ほど愉快な友だちにめぐり合えたことがない」。森の中での孤独は隔離ではなかった。さらに大きくて多くの友だち、自然と親しくなる過程だった。「人間はいつごろ…」はありきたりの挿絵一つもないが、深くて広い世界が繰り広げられる。科学や探険でなくても大発見が存在するということを。一針一針縫いつないだキルトのように、一つ一つの文字が生きて息をする。ゆっくり、そして小さく声を出して読んでみてほしい。森がゆっくりと両手を広げる。

「暑すぎる地球」は明快だ。あなたが享受している安らかな暮らしが地球の息の根を止めていると直説的に問い詰めている。小さな変化が人間と地球の生命を延長することができると一喝する。「京都議定書を見捨てたジョージ・ブッシュの人形を犬にあげるより、私自身が排出する温暖化ガスから減らす決心をした。私の役目を全うすることにした」

著者は平凡な米国の中産層の4人家族を例に挙げる。仮のジョーン・カーボン氏の家族がどれほど多くの温暖化ガスを排出するかを見てみる。旦那の車が送り出す温暖化ガスは1年に12トンが超える。妻がディスカウントストアーで買い物するのに4トン、室内の冷暖房で13トンを排出する。甚だしくは子供が犬の散歩に公園へ行くのも年間3トンの温暖化ガスを作り出す。

著者は英エディンバラ大学自然環境調査委員会の研究教授。地球温暖化の危険を身にしみるほどよく知っている。強迫症と感じられるほど温暖化ガスと関連した些細なすべてのことに差し迫る。カール・セーガンが「コスモス」で「青白い点」と描写したこの地球が「燃え上がる赤い点」にならないようにしなければならないという著者の熱弁が耳元で響くようだ。

今や決定は我々がするものだ。子孫に美しい自然を?いや、違う。環境は現世代の問題だ。はるか遠くの南極の話ではない。夏はしきりに暑くなり、春秋はますます短くなる。森へ帰って悔い改めるつもりなのか。そうでなければ、少しずつ暮らしの態度でも変えなければならない。自然が人間を抱えて絶壁から飛び降りる前に。



ray@donga.com