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風が残した歯の跡に触る

Posted August. 03, 2007 06:20,   

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「千年は流れずに古くなるものだから、昔の冥府(ミョンブ)殿の日の映る礎石の石が水中のようにゆらめく時…私は風の百万番目の奥歯に噛まれていて、千年のしっぽでしなって千年の羽で崩れる」(「風の百万番目の奥歯」より)

シン・ヨンモク(33、写真)氏は、「風の教徒」(詩人パク・ヒョンジュン)だ。千年にもなる詩人の舌は、風が虚空に歯の跡を作る場面を歌う。新しい詩集『風の百万番目の奥歯』(創批)で、彼は目に見えない風を肉体化する。

シン氏は内面の傷と闇を鋭く捕らえて聞かせる、敍情の伝統を地道に歩んできた若手の詩人として評壇の注目を浴びている。歌う詩人の声はおおむね物静かだが、慇懃な熱情が詩語の間に染み込んでいることを垣間見ることができる。

仮に「赤い釜」がそうだ。「ある恋しさがここまで滲んできて//歳月のねりを膨らませようか。一夜を過ごすとまっ暗な石ころになってしまう/ひもじさを抱え、お母さん//どの枝を折ってあの沸く釜を掻きまぜましょうか」。

この詩の空間的な背景は、「木と葉と石ころがうろうろして漂流する」幻想的な場所だ。詩人が創り出した美しい空間で、彼は「ひもじさ」を感じる。もちろん、生きていく中で誰もが感じる「人生のひもじさ」だ。詩を読む多くの読者たちは、詩人が語る人生のひもじさに共感するだろう。歳月はねりのように流れるものだが、一瞬にしてまっ暗な石ころになってしまうのが人生でもあることを。

そのひもじさは他の詩編でも見られる。「ひもじさが白い湯気になって立ち込めるどんぶりの中には雨水の白髪である麺/お箸ごとにどんな労働がぶら下がるのか」(「赤い顔で麺を作る」より)、「欲望を鏡のように完璧な対称に分け合った魚は/ひもじさの大きさだけ海草の誘惑にとらわれていた」(「ホ・ボンスのソウル漂流紀」より)のような個所がそうだ。

ひもじさは、どのようにして和らげることができるのだろうか。「風の教徒」である彼はそのひもじさを、すべてのものを抱きながら通りぬく風が、抱くことができると考えている。

「竹が育った風の歯の跡だ/鳥が座った風の歯の跡だ」という詩句のように。



kimjy@donga.com