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中国史の碩学、易中天の「楚漢戦争の講義」

中国史の碩学、易中天の「楚漢戦争の講義」

Posted July. 07, 2007 03:04,   

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かつての中国で封建諸侯王の勢力が増大した時、当代の改革家晁錯は、前漢の平和や安定と皇室の繁栄のために中央集権の強化を図った。「御史大夫」という重職についていた晁錯は、当時の皇帝だった景帝に、諸侯王の領地を没収する策を提案した。

その時、諸侯王の一つだった呉の丞相を務めた袁盎が、「呉と楚には、謀反を起こすだけの力がない」といって反対したが、晁錯は「領地没収策」を強行して諸侯王たちの反乱をもたらす。「呉楚七国の乱」である。

危機に直面した皇帝は「晁錯を死刑にし、没収した領地を返せば反乱を鎮めることができる」という袁盎の訴えを受け入れ、晁錯を処刑する。

ここまでの流れだけをみると、誰が忠臣で誰が奸臣なのかよく分からない。晁錯は確かに正義感の強い剛直な人物で、先見の明があった。それでは一方の袁盎はどうか。彼も真面目で温厚な人だった。だとしたらなぜ、晁錯は誅殺されたのだろうか。

豊かな学識や才能を持っていながらも、彼は自分の主義主張が余りにも強く、他人への配慮が足りなかった。晁家が標的になっていることを感じた晁錯の父は、息子に「領地没収策」の撤回を求めるが、拒否されて毒薬を飲んでしまう。現実感覚を欠いた空想の世界につかっていた晁錯は、「何をするか」についてばかり悩み、「どうやって」ということは考えていなかった。

中国CCTVの番組「百家講壇」での「楚漢戦争の講義」で、「歴史の大衆化」を進めている易中天・厦門大学教授。同氏は、中国の歴史が動いたその決定的な瞬間をとらえて、乱世の英雄と奸雄たちの行跡を隅々まで追っていく。

同氏の分析は、非常に辛らつでしかも明快だ。私たちは、中国史の英雄と奸臣を二元論的に解釈することになじんでいるが、易氏はきっぱりとその解釈を否定する。歴史は善と悪との対決ではなく、勢力と勢力、路線と路線との闘争であると説破する。その中から「隠されている真実」がさらけだされる。

宋朝の富国強兵策である「熙寧の新法」を唱えた王安石の失敗も、易氏はその延長線上で解釈する。王安石の改革案である駙苗法、方田均税法、市易法などは、いずれもその時代に必要だった妙策だった。しかし、結果は失敗した。自治統監の著者である司馬光、蘇東坡の反対だけが理由ではなかった。制度の施行過程で、悪徳官吏らは改革を不正腐敗に利用した。王安石は情熱的で、優れた頭脳を持ち主だったが、現実の面には疎い人であった。道徳的な人だったが、不幸にも改革の結果は道徳性とかけ離れたものだった。

時代が下ってアヘン戦争が勃発すると、清朝の官吏らは偽りの報告を貫けた。英国軍に大敗したのに「勝った」と皇帝に報告する。島国からきた侵略者たちに敗れたという報告は「死」を意味していたためだ。彼らは延命のため、偽りの報告という「アヘン」につかっていった。

出版されている本は多いのだが、一度読み始めるとやめられない本にはなかなかめぐり合えない。小説ではない人文学分野の本、特に翻訳書ならさらにその確率は低くなる。だが、この本は、手にする瞬間から自分も知らないうちに無我夢中になって読み進めるようになるほど魅力的なものだ。

国家統治を夢見る政治家や企業を経営する事業家、リーダーを目指すすべての人々に一読を勧めたい。本を読み終えた瞬間、「どうやって」はなく「何を」だけがはびこる韓国の現実に、ため息をついている自分に気づくはずだ。



yyc11@donga.com