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朝鮮のソンビが足で書いた名山物語

Posted March. 24, 2007 09:18,   

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平民層からもそのような評価を聞くことができる。パンソリ「ビョンガンセ伝」でビョンガンセとオンヒョがどこに住むかを話し合うところで、「東、金剛(クムガン)は石山で木がなくて住めないし、北の香山は冷たいところで雪が積もるから住めないし、西の九月山(クウォルサン)は良いけれど、盗賊が多くて住めるものか。南、智異山(チリサン)は土が厚く生利が良いというから、そこへ行って住もう」というくだりだ。

ソンビの評価はないだろうか。約1500編あるとされる朝鮮時代の遊山記のうち、35ヵ所の名山に対する55人のソンビの遊山記の核心を解説したこの本で、探すことができる。

『於于野譚』の著者の柳夢寅(ユ・モンイン)が1611年に書いた「頭流山(トゥリュサン)紀行禄」で、自分が若干の年から三角山(サムガクサン、北漢山)で寝起きし、朝晩に白雲台を上がり、官職に付いてからは八道を見て回りながら数々の名山を踏査し、白頭山(ペクトゥサン)はもちろん、遼東から北京に至る名山を全部鑑賞したと書いている。そのような彼が最高と挙げた山は智異山(チリサン)。彼は一時、「わが国の山は風楽山(プンアクサン)に集大成される」と思っていたが、智異山の天王(チョンワン)峯に上った後、「その雄壮な傑出さは、韓国の全ての山で一番」と書いている。ひいては「世の中の営利を断って、永遠に離れて帰らないのだったら、唯一この山(智異山)だけが隠居するに値するところ」と書いた。

ところが、柳夢寅が晩年に光海君(クァンヘグン)と仁祖(インジョ)の政権交代期に官職をやめて隠居した山は金鋼山だった。生六臣で有名な南孝温(ナム・ヒョンオン)も官職を離れて名山大川を流浪したことで有名だが、彼が最高の山と表したのは金鋼山だった。これは同じ山遊であっても、西遊は中国の先進文物を追って、南遊は「海の幸、山の幸」を追って、北遊は美人を追うが、ただ東遊だけが清い心を追うという英祖(ヨンジョ)時代の文臣である李用休(イ・ヨンヒュ)の考えと脈を共にする。特に、南孝温の清廉な心には、後日朝鮮時代の金鋼山の観光商品として脚光を浴びることになる鉢淵(バルヨン)での水滑り(ウォーター・ボブスレー)を、夕日が暮れるまで楽しんだという童心が込められているという点で、さらに人間的だ。

白頭山を「朝鮮の崑崙山」に挙げた民族主義的科学者の徐命膺(ソ・ミョンウン)、黄真伊と一晩の万里の長城は築けなかったものの、漢拏山(ハンラサン)頂上に上がった最初の記録を残した快男児の林制(イム・ジェ)、配所へ行く途中、北漢山とそっくりの山を見つけて杜甫の歌句から取ってきた「チョムファリョン」というロマンチックな名前を付けた詩人の金萬重(キム・マンジュン)、家の中に山水画を掛けておいて、琴で水の音、風の音に代えた芸人の姜世晃(カン・セグァン)…。

しかし、智異山に17回の登ってという南冥(ナムミョン)こと鉠植(チョ・シク)が残した言葉ほど、登山客の目を引く句節がまたとあろうか。「上へ登るのもその人なら、下へ落ちるのもその人。ただ、足を一歩踏み出すことにかかっているのだ。」

朝鮮時代の遊山記250編を選んで多様な視覚物と一緒にインターネットに構築したストーリーバンクの「朝鮮時代の遊山記(yusan.culturecontent.com)」を参照にすれば、より立体的な鑑賞が可能だ。



confetti@donga.com