Go to contents

「人類学の母親」マーガレット・ミードの熾烈だった足跡

「人類学の母親」マーガレット・ミードの熾烈だった足跡

Posted February. 14, 2007 07:57,   

한국어

フランツ・ボアスを米国人類学の父親と呼ぶなら、マーガレット・ミード(1901〜1978)は人類学の母親だ。ミードは、人間の本性と文化の多様性を探求するために奥地での孤独な現地研究に一生を捧げた。

末年にミードが書いたこの自敍伝は、ミードが自分の生と職業、愛、家族、そして人類学に対し、いかに真剣で熾烈だったかを見せてくれる。

ミードは50年余りを男性でも手に負えないような危険と疲れの中で、奥地の各村を捜し回った。南太平洋のサモア諸島、ニューギニアのセピック川の端とマヌス島、そしてインドネシアのバリ島で、ミードが一生実験し研究した男女の文化的差と養育、文化と気質の関係は当時フロイト心理学が支配していた人間科学の中で、新しい疑問を投げかけた。 

ミードは本人の生涯で見せてくれたように、性と結婚に対して「寛容」な態度を取った。ミードは人間の寿命が延長されるほど一夫一婦制が一生持続する可能性は少なくなるという考えで、結婚に過度な期待を抱かないことと予備的結婚を勧めたりした。実際にミードは牧師志望生や、現地の研究中に出会った熱情的な人類学者レオ・フォーチュンやグレゴリー・ベイトソンと結婚するなど3回結婚して3回離婚したが、前の夫たちと彼らの妻とも良い関係を維持することで、新しい形態の挑戦的な生を過ごした。

この自敍伝にはないが、ミードの研究はいつも実践的な社会参加として行動に移されており、社会活動は末年まで続いた。ミードは米国人類学会と米国科学振興協会会長を務めただけなく国立アカデミーの会員だったし、世界教会協議会など10余りの組職に関与した。ミードは世界を歩き回りながら宗教と女性、犯罪、飲酒、結婚問題などほとんどすべての社会問題について大衆の前で講演を行っており、女性雑誌「レッドブック」に16年間寄稿し、女性の人権伸張にも大いに寄与した。何よりもミードは人類学を大衆に広く知らせており、そのおかげで米国社会は偏狭な文明優越主義から脱し、外部世界を眺めながら他の文化にも関心を持つようになったのだ。

1978年11月、ミードが膵膓癌で死亡した時、ミードが現地調査を行った南太平洋のマヌス島の村人たちは大酋長が逝去した際に行う5日間の葬式で哀悼を示した。ミードが死亡した後、豪州の人類学者デレク・フリーマンはミードのサモア諸島の研究が信じられないほど純粋なものだったと非難する本を発刊しており、ニューヨーク・タイムズ紙はこれを1面に報じ「ミードの神話」がまた大きな論争にさらされるようになった。しかし、サモア諸島を再び訪れた人類学者たちはミードが正しく客観的であって、非常に立派な研究者だったことを証明した。

ミードの自敍伝は、実に文学的で詳細に生と学問、人間と世の中に対する洞察力を見せていることで、ミードがなぜ人類学の母親としてこれまで尊敬されているかを感じることができるように説明してくれる。ミードは自分が止まる所はどこでも故郷だと思い、世の中のすべてのものと熱情的に出会っていたのだ。