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80歳知識人の「韓国国民への叫び」

Posted June. 17, 2006 03:09,   

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「ある春の日、木陰のあるキャンパスの芝生に横たわったっていた。ふと見上げると、木の枝に誰かが彫った『絶望』という文字が目に入った。私は、身震いをして立ち上がった。・・・キルケゴールの『死に至る病』を翻訳本と照らし合わせながら、何度も読んだ」

敬虔なクリスチャンであり、実践的知識人として生涯を生きた池明観(チ・ミョングァン、82)翰林(ハルリム)大学教授。池教授は、自叙伝『境界を越える旅行者』で、植民地、分断、戦争、独裁との闘いの只中を生き抜いてきた知識人の自画像をストレートに表現する。

「私はいつも、現実の中に跳びこんで生きていくのか、さもなければ、目をつぶって、いわゆる学問の世界へ逃避するのか、という二者択一の問題を悩んできた」

1924年、平安北道定州(ピョンアンプクト・チョンジュ)で生まれた彼にとって、光復(クァンボク=独立)の感激は、さらなる絶望に過ぎなかった。激しい左右イデオロギー対立の中で、父のように慕っていた先生と別れなければならず、残忍な戦争の中で狂ってしまった大学同期生を目の当たりにし、自分は正常な人間なのかと自問した。

文学青年だった4・19革命を契機に、本格的な社会運動知識人になった彼は、1964年7月、大学講壇から退き、張俊河(チャン・ジュンハ)氏が創刊した『思想界』の主幹を務めた。当時、『思想界』は、日韓条約反対運動の中心地だった。しかし、気概ある民族主義者として日韓条約に反対し、激しく戦った張氏は、時代の変化に柔軟に対応する冷静な現実主義者でもあった。同氏は、「韓日条約時代」に備えるために、池明観、金俊鎏(キム・ジュニョプ)(元高麗大学総長)ら3人を日本に送る。

当時10日間の日本旅行は、池教授の人生を一変させた。米国留学、欧州、中東旅行をし、思想的に大きな変化を経験した彼は、息の詰まる維新政権を避け、1972年、日本へ留学し、その後20年間、東京で亡命生活をする。

「知識人とは彼らが持つイデオロギーで決まるのではない。その社会においてどのようにヒューマニティを考えるのかという姿勢で眺めなければならない。何から人間を解放させるのか、何に対して対抗するのかを考えなければならない」(『思想界』1966年9月号)

池教授は、1973年5月、日本の『世界』編集長だった安江良介の勧めで、『韓国からの通信』を「T・K生」というペンネームで書き始めた。筆者に対する多くの憶測を呼んだ『通信』は、1988年3月まで、なんと15年間続いた。この『通信』は韓国の民主化運動と独裁政権反対闘争を全世界に知らしめ、キリスト教ネットワークを通じて、国際的な支援と連帯を築く役割を果たした。

激動の歳月を振り返りながら、池教授は「すべての革命は失敗した革命だ」という政治・哲学者ハンナ・アーレントの全体主義批判哲学に深くはまっていったという。

「なぜ韓国の政治家たちは、権力をつかめば、黙々と正しい政治を目標にするのではなく、声高に刷新を宣言するのだろうか。みんな政権さえ取れば、生ぬるい改革を嫌悪し、まったく新しい時代を夢見る革命家になるのだ。やがて新しい勢力は、自分たちが掲げたスローガンによって、かえって審判を受けることになる」

池教授は同書で、現代の知識人の役割について、「家父長的権威主義体制VS革命的抵抗勢力という非妥協的対決構図を乗り越えた後の民主主義が重要だ。相手を敵と味方に分けてきた時代を乗り越えなければならない課題が、まさにそれだ」と強調している。



raphy@donga.com