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お茶一杯に志を保ち、二杯に心を清める

Posted June. 03, 2006 03:12,   

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穀雨節の晴れた日、新茶が芽生える頃なら、頭輪山(トゥリュンサン)の日ざしは、山葡萄の色に似ている。その頭輪山麓の一枝庵(イルチアム)には、後日、茶聖と呼ばれる艸衣(チョウィ)禪師が修道の生活をしていた。

野生の茶畑が散在しているこちらで、艸衣は一杯のお茶を通じて「法喜禅悦」を味わい、茶禅一味の境地に入った。艸衣のお茶作りの腕前があまりにも優れ、秋史金正喜(チュサ、キム・ジョンヒ)は、このような乞茗の手紙を書いて送った。「いつ新茶を千里馬のしっぽにつけて届けるつもりか。もし君の怠惰のせいなら、馬祖(マジョ)の喝と徳山(トクサン)の棒で、その癖を戒め、その根性を懲戒するつもりなので、是非とも慎むべし」

この本には、孤雲崔致遠(コウン、チェ・チウォン)から春園李光洙(チュヌォン、イ・グァンス)に至る歴史の中の茶人50人の話が記されている。お茶を飲むわが先祖の香ばしい歴史であると同時に、お茶の性格に似た美しい人々の跡を追う旅行記だ。著者は、お茶を育てた地と雨と日ざしと風の縁に感謝し、「韓半島の隅々までお茶の香りの染み込んでない所はない」と語る。

茶の木と禅家の縁は深い。趙州に端を発する僧伽の茶脈は、新羅(シルラ)時代の撤鑒(チョルガム)禅師によって海東(ヘドン)に渡来し、高麗(コリョ)時代の普照(ボジョ)國師と眞覺(チンガク)国師が、朝鮮(チョソン)時代には涵虚(ハムホ)大師と四溟(サミョン) 大師に続き、艸衣禪師が栄えさせた。

しかし、わが歴史で、お茶一杯の意味は禅家の垣根をさらに越える。お茶の文化は禅僧たちの修業の手段を超え、韓国文化の頂点に達した遺産だった。

崔致遠、李資玄(イ・ジャヒョン)、金時習(キム・シスプ)、許筠(ホ・ギュン)は、お茶の清虚さを世の中がどうして分かるだろうかと隠遁しており、金宗直(キム・ジョンジク)、李穆(イ・モク)、奇大升(キ・デスン)、金長生(キム・ジャンセン)、李珥(イ・イ)、宋時烈(ソン・シヨル)、尹善道(ユン・ソンド)は、お茶を君子のように考えた。梁彭孫(ヤン・ペンソン)、金正喜、許百錬(ホ・ベンニョン)は、お茶と一緒に「書画潜心」しており、申叔舟(シン・スクチュ)と李光洙はお茶一杯に歳月の栄辱を浮かべた。

高麗王朝の志を守った「三隠」が全員茶人だったことも興味深い。四季にわたって緑色の茶の木はあえて潤っていない地を選んで育つ。根がまっすぐに伸びる「直根」の性格を持ち、植え替えるとすぐ死んでしまうと言う。それは昔の学者の剛直な気概だったのだろうか。



keywoo@donga.com