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どう生きるのがうまく生きることなのか?

どう生きるのがうまく生きることなのか?

Posted April. 15, 2006 03:08,   

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「良心に従って高麗(コリョ)王室に忠節を守り、善竹橋で殺害された鄭夢周(チョン・モンジュ)と皆殺しにされた彼の家族、いっぽう、彼を殺した後、王権を略奪して、500年の間、多くの子孫を残して栄えた李芳遠(イ・バンウォン)」

どちらがうまく生きたと言えるだろうか。

韓国戦争の時も、ある町で、利口で真面目だったために共産主義者や国軍に虐殺された人がいる一方、利口でもなく実利を考えたおかげで生き残り、面長や郡首、国会議員になって、子孫を残し、出世した人々もいた。

熾烈(しれつ)な生存競争の時代、強く生き残ることが美徳である時代に、当代の碩学者、元老、哲学者が打ち明ける「生き残った者の悲しみ」を読めば、むしろ困惑する。

著者は、激しい競争で生き残った遺伝子の強さを誇らしく思う代わりに、「生命の先祖であるバクテリアの遺伝子が、いかに強力な競争力を持ち、先祖がいかに毒種で浅知恵が働き、いかに神経が太かったために、幾多の恥辱を耐えて生き残ることができたのだろうか」を考える。

生存競争の勝利者として大きな誇りを感じるべきだが、生き残った自分に対して感じる何となく気まずく、バツの悪い感情・・・。哲学はここから始まる。人間は、生物学的だけでは説明できない「倫理的存在」である。重要なことは、「ゴキブリのように繁殖して存在するのではなく、どのように霊的価値の実現のために存在するのか」である。生きている限り、誰でも「どう生きるべきか」という問いかけを避けることはできない。

同書は、現在米シモンス大学名誉教授であり延世(ヨンセ)大学特別招聘教授である著者が、どのように生きるのか、どこでどのような人々と生きるべきか、死をどのように考えるべきかなど、誰もがぶつかる問題を易しく解いた哲学エッセイだ。著者は、18の「実践的な人生においても切実なテーマ」を選んで、読者にともに考えることを勧める。

どう生きるべきか、著者が明快に回答を語ってくれると期待する読者は、この本を読んで困惑するかもしれない。回答を提示する代わりに、質問を投げかける本だからだ。

一生、哲学を勉強してきた著者も、宗教的経典や西洋哲学の古典も、私たちを実存的放浪から解放させてくれないとし、「放浪は人間の運命だ」と言い切る。経典と古典が提示するその偉大な回答が正しいか間違いかを何の根拠で判断するのか、人間の生は大変具体的な小さな選択で成り立つのに、雄大な回答が一体何の関係があるというのか。

あらゆる種類の自己啓発や冥想の書籍が勧める「心を空にする」ことがうまくできず、自らをとがめる読者なら、著者が「すべての苦痛の原因が自分への愛着にあるという仏の言葉は正しいが、愛着を切り離せという教えは非現実的だ」と言う時、自然にうなずけることだろう。

著者は「何かに対する愛着がない生命は存在できない」とし、息子の遺骨を火葬場から持ってきた直後に、おいしい食べ物を求め、明日を心配する人間の姿を、淡々と述懐する。

易しい言葉で書かれているが、同書を読み込むには、テーマ別に選んで読むよりも、はじめから精読しなければならない。質問と理由がつながっているためだ。

どう生きるべきかという質問は、人間が必ず追求すべき価値があるのかという思索へと、実存的選択と社会的規範に対する探索へと、道徳と倫理に対する冥想へと拡がる。この本を読むと、著者の言葉のように、「哲学は易しいことを難しく言う言説ではなく、可能な限り、すべての先入観から解放され、すべての問題をありのままに見ることだ」ということを実感させる。

個人の実存とともに、生きるための社会の条件に目配りし、「なぜ」と問う著者の質問に従って行けば、読者は自然に「私はうまく生きているのか」と考えることだろう。もしかすると、質問の中に回答があるのかもしれない。そのような読者を見て、元老哲学者は微笑んで、このように言うだろう。「あなたも哲学的思惟を始めましたね!」と。



susanna@donga.com