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一本の樹になったように…、永遠の愛の約束

一本の樹になったように…、永遠の愛の約束

Posted April. 14, 2006 03:16,   

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13日封切りした映画「連理の枝」は、主演女優であるチェ・ジウを除いては考えられない映画だ。自分の命よりも愛していた恋人と、難病のため別れなければならないというストーリー設定はもちろん、映画の中でみせるキャラクターの面々までもが、彼女を「ジウ姫」という別名とともに、日本最高の韓流スターにしたテレビドラマ「冬のソナタ」と、あまりにもそっくりだという気がするためだ。

自己複製はかならずしも悪いことではない。自身を出世させた特定イメージを再び利用するのは、安全な商業的選択かも知れない。焦点は、むしろ自己複製の中でもどんな方法であれ、たった一歩の前進をみせてくれるかどうかにある。このような観点からすれば、「連理の枝」は明らかに観客の目頭を熱くさせるが、ただ、チェ・ジウの成功作として残るかどうかは難しいようだ。「連理の枝」は、チェ・ジウの映画というよりは「ジウ姫」の映画に近そうな感じだからだ。

あらすじはこうだ。売り手のゲームベンチャー企業社長であるミンス(チョ・ハンソン)は、雨の降る日、偶然とヘウォン(チェ・ジウ)を車に乗せ、彼女と付き合うことになる。プレイボーイだったミンスはヘウォンに真の愛を感じ、生涯に1回だけの愛が訪れたことを確信する。一方、ヘウォンの親友であるスジン(ソ・ヨンヒ)とミンスの先輩ギョンミン(チェ・ソングク)も恋に落ちる。ミンスはヘウォンが、肺機能が止まる可能性のある難病を患っていることを後で知り落胆するが、自身に関するもっと衝撃的な事実を知ることになる。

「連理の枝」は、近頃の観客の好みに合わせた、様々な設定を用意周到に配置した痕跡があきらかだ。ひょっとしたら退屈にみえるかも知れないヘウォンとミンスのラブストーリーを支えるため、ギョンミンとスジンの可愛いラブストーリーにも多く割愛している。その上、演技力が検証されたソン・ヒョンジュとチン・ヒギョンをそれぞれ、ヘウォンの主治医と看護婦に、株価上昇中の役者のヒョンヨンをミンスのストーカとして登場させ、映画の味を補完した。ミンスの華やかなファッション、恰好良いカンバータブルカー、お洒落なレストランでの最高級ディナーのように視線を止めておく華麗なアクセサリーも申し分がない。

しかし、「連理の枝」は、童話の中でしかなさそうな切ないラブストーリーに傾いたため、本当に重要な一つを無くしてしまった。それは、「現実」が持つ空気だ。「連理の枝」では現実の臭いが存在しない。切ないラブストーリーを生産するため、完璧に作られた一つの仮想空間があるだけだ。セリフも「バカ。私死ぬのよ」または、「私、もっと生きたくなったらどうしよう。ミンスさんを愛すればするほど、もっと生きたくなってしまう」などのように、憎らしいほど無邪気なふりをする水準だ。彼らの恋が熱くても観客にはそれが感じられず、また、彼らの別れはつらそうだが観客の胸が痛まないのも、ガラスの壁にとじ込まれた童話のようなラブストーリーが到達するしかない終着駅、なのかもしれない。

チェ・ジウは窓の外に降る雨を無邪気な顔で見ていては、雨の中の訪れてきた男の姿にびっくりしながら感動する「難病姫」のイメージを踏襲する。ミンスの突然の口づけに驚いたように目を大きくするチェ・ジウの姿は、「冬のソナタ」で既に慣れきったトレードマークだ。相手の男優がだれであれ、恋に落ちた彼女の表情が千篇一律なのは、韓流スターになったチェ・ジウが陥った一種のジレンマであるはずだ。役者が自身を出世させたイメージから逃れることは、たいへん難しいことであるためだ。

そのような点で、「連理の枝」の新しい発見はチョ・ハンソンだ。彼は前作「オオカミの誘惑」に比べて驚くほど存在感が増え、画面を掌握する能力やセクシーさは、開花し始める花のようにエネルギーで満ちている。

「連理の枝」とは、二本の樹の枝が成長するにつれ、寄り添いながら絡み合い、まるで一本の樹のようになっていく自然現象のようだ。この作品は金ソンジュン監督の長編デビュー作。12歳以上観覧可。



sjda@donga.com