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韓国的な司祭の人生

Posted March. 21, 2006 03:12,   

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『多夕(タソク)講義』は、柳永模(ユ・ヨンモ)が1927年から、月南・李商在(ウォルナム・イ・サンジェ)の後を継いでソウルYMCAで35年もの間(1928〜63)行なった研経班(経典研究班)講義のうち、1956年10月17日〜57年9月13日までの約1年分の内容を速記したものだ。柳永模は、『多夕日誌』を除いて著述を残さず、自分の死を予言したため、弟子たちが慌てて速記録をつくったのだ。そうしてつくられた1年分の講義速記録は、彼の思想の真髄を見せてくれる肉声記録と評価される。

多夕は、何よりもキリスト教思想を韓国風に内面化した代表的な思想家だった。神とキリストの関係を儒教的な父子有親の完成と解釈し、道徳経の「道」を神のいる高き所に向けて駆けつけることを表わしたものと解釈した。

また多夕は、ハングルは神が世宗(セジョン)大王を通じて韓国民族に送った啓示だとし、韓国語の単語の一つ一つを新たに解釈した。彼は、神を韓国語で「ある」と「ない」を超越した方という意味で「なくてある方」と解いた。「今日(オヌル)」は一日が「いつも(ヌル)」、すなわち永遠だという意味から、「オ!ヌル」と解釈した。後日、咸錫憲(ハム・ソクホン)の代表的な思想とされるシアル思想(民衆思想)に含まれた生命と平和の思想も、その源流は多夕だった。

多夕が奥深い思想家だったなら、咸錫憲はその思想を社会的生活の中で具現した実践家だった。咸錫憲は、五山(オサン)学校3年に編入した時、新しく校長に赴任した柳永模に出会い、彼の紹介でキリスト教思想の内面化を強調した日本の内村鑑三に出会ったことで、キリスト教思想家として生まれ変わった。

『私が会った咸錫憲』には、1955年12月14日、咸錫憲が生まれて2万日にあたる日の夜の話が書かれている。咸錫憲はこの日、師匠である多夕と餃子スープを分けて食べ、弟子たちに自分の成長過程をグラフで説明した。放物線で緩やかに上昇するそのグラフは、多夕に会った1921年と内村に会った1924年には垂直に上昇した。

著者である金容駿(キム・ヨンジュン)教授の成長過程にも、そのような垂直上昇があった。1949年、ソウルYMCAで偶然、咸錫憲の講演を聞いたまさにその日だった。その金教授が描いた咸錫憲の姿は、詩でも詠まざるをえない「ロマンチスト」であり、李承晩(イ・スンマン)の反共独裁と朴正熙(パク・チョンヒ)の軍部独裁に命をかけて反発しながらも、海外では決して韓国に対する批判を口にしなかった真の愛国者であり、何より「盡人事待天命(人事を尽くして天命を待つ)」を生涯実践した「待つ神学者」だった。

「待つ神学」とは何か。咸錫憲は、韓国民族5千年の歴史的テーマを「苦難の歴史」と理解した。日本植民地支配期と分断を「いばらの冠」としたその受難の末に、神の驚くべき役事が待っている歴史として。そのため、彼がこの地の民衆に願う一言は、今、より鮮やかな感動を与える。

「絶えず成就し、追求を続け、苦労と待つことを学べ」



confetti@donga.com