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「アラ、申成一はどこなの?」

Posted February. 24, 2006 03:06,   

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16日封切された『申成一(シン・ソンイル、俳優)の行方不明』は、反転の想像力が見所の独立映画だ。韓国映画アカデミーを卒業し、早くから『才能のある少年・李チュンソプ』、『彼の真実が前進する』のような短編映画で注目を浴びてきたシン・ジェイン監督は、映画振興委員会の支援金と自分のポケットマネー合わせて調達したわずか6500万ウォンで、自分の最初の長編映画を撮った。

シン監督に幸いなことは、アイディアを搾り出すのには金が掛からないということだ。彼は人が持っている固定観念をそのまま持ってきて、それを一気にくつがえしたり、もしくは、いやなほどそれを最大化してしまう。この手法を通じて、彼はかたくなで型にはまったようなテーマを、新鮮な新商品であるかのように見せかける魔術を使う。

女心につけこんで、ロマンチックなせりふを投げかけていたハンサム男優「申成一」の名前を持ってきて、いくら食べても太らないと堅く信じ込んでいる子供の名前につけたのや、新たに孤児院に入所して、気取った態度で「堕落って何か知ってる?あんたと私が寝るとそれが堕落なの」とえらそうなことを言う青白い少女の名前を「李ヨンエ」に設定したのが、そのさいたる例だ。シン監督は、集中力があり、一貫した主題意識を通じて、このような「名前遊び」が単なる集客行為以上の洞察力のある映画的装置だったことをアピールする。

ところが、原色的な主題意識は、同映画では「諸刃の剣」のようなものだ。筋を前もって「読んだ」ことからできた期待感に比べて、映画的な楽しみに欠けるのは、自分が語りたい話をたゆまず露骨的に繰り返す行為が、観客にかえって一種の疲労感を与えるからだと思う。

同映画の象徴と比喩は抜群だ。とんでもない教理を押し付ける院長と、教理を無条件で信じて従う子供たちの姿には、指導者と遇民が結ぶ歪んだ社会契約が風刺されている。映画は善という名のもとで行使される暴力の矛盾と、造反を夢見る子供たちの姿を通じ、政治と宗教、洗脳あるいは集団催眠、市民の不服従の概念を寓話的に描く。

問題は同映画が上映時間103分の長編だということだ。このように新鮮なアイディアは、映画の中で自らの生命力を持って生きて動けず、まるで塾の講師のサマリーノートのようにあまりにも一目瞭然で、図式的に提示される。

30分なら十分伝えられるような比喩と象徴のメニューを長く引きずったことに、本質的な問題がある。いつの間にか、映画自らが映画の中の孤児院長の歪んだ執着のように、誰かを無理に教えようとする姿を見せるのも、物語が持っている胎生的なスケールの限界によるものとみられる。

有名俳優たちの名前を思う存分もてあそんだように、シン監督が映画自体をより楽しく使いこなしたならば、この上ないものとなっただろう。主題は冬のキムチかめのように、土の中に深く埋まったままだ。



sjda@donga.com