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東西文明が競演する尹画伯の筆先

Posted October. 11, 2005 03:02,   

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抽象絵画と現代美術の流れをリードし、韓国美術のアイデンティティを探求してきた洋画の長老、尹明老(ユン・ミョンロ、79、芸術院会員)画伯が大規模のな回顧展を開く。

ソウル鍾路区平倉洞(チョンログ・ピョンチャンドン)カナアートセンターの企画招待展で開かれる尹画伯の作品展「息づかい」は、「抽象画」製作45年の世界をすべて見せるといっていい展示だ。代表作60点と新作10点が展示される。

尹画伯は1970年代、油絵が乾く速度の差を利用し絵の表面にヒビが入るよう放置しておく技術の「割れ目」シリーズを、1980年代には、速い筆づかいと自由で緩やかに構成された画面に象徴される「筆づかい」の連作を披露してきた。1990年代は、荒々しく豪放な筆跡とカンバスにあふれる顔料の跡が特徴的な「匿名の地」シリーズを発表した。

5年前の2000年、「謙斉(キョムジェ)礼賛」シリーズからは、油絵の代わりに鉄の粉で絵を描いてきた。作家は、「暗く控えめだった青年時代の沸き立つ感情を抑えながら、謙斉(鄭敾)が繰り広げた東洋画の世界に没頭した」と言う。

洋画と東洋画、表現と思惟、世界と韓国との間で苦闘し、し烈な作業をくぐり抜けてきた彼の一生は、変化と苦難に満ちた韓国の現代史とも軌を一にする。日本の植民地時代に生まれ、朝鮮戦争と困窮期の険しい歳月を強いられた青年画家の1960年代の作品は、銃弾に撃たれた魂のように暗うつで、うっ憤に満ちていた。尹画伯は1960年、国展の権威に反発し、キム・ジョンハク、キム・ボンテらとともに美協を結成、徳寿宮(トクスグン)の壁面を美術館として作品を掲げた「1960年美協展」を開いた。

怒りと挫折に満ちた青年尹画伯に新しい刺激を与えたのは、1969年の1年間、ロックフェラー財団の招請で米国を訪問したときだ。豊饒の地、米国では深い劣等感も味わったが、現代美術の多様さに接しつつ、尹画伯は「何を描くか」よりも「いかに描くか」について深く悩み始める。

古いものを学び新しいものをつくり上げようとする作家の努力は、韓国画の紙筆墨の代わりに鉄の粉とアクリル絵の具、ブラッシュとナイフで、現代的でありながら伝統的な絵、西洋的でありながら韓国的な絵画を生み出した。

作家は、人為的な複製は不可能というメッセージを強調する主旨で、鉄を材料に使い始めたという。鉄分は水に触れれば色が変わる特性上、作業そのものに上塗りのような繰り返しが効かない。そんな点で水墨と似ている。

尹画伯の近作は、色合いがいっそう単純になり、心象風景を構成する岩と木、谷、水音などの波長は小さくなったようだが、画幅の震えと響きは、より深い。

自らを「セザンヌと謙斉の間を行き交う作家」と評する尹画伯の話は、「謙斉は、西洋美術におけるセザンヌに匹敵する、偉大な人物だった」ことを強調するものでもあるが、東洋と西洋を内在させ葛藤する自己のアイデンティティを表した言葉でもある。

この多様なイメージ氾濫の時代に、尹画伯はあたかも、現代作家として生まれ変わった謙斉を夢見、自分だけの夢幻的な山水を繰り広げているかのようだ。展示は30日まで。問い合わせは02—720—1020。



angelhuh@donga.com