Go to contents

1957年、ハングルは生まれ変わった

Posted October. 08, 2005 07:57,   

한국어

1945年9月8日、京城駅(現・ソウル駅)構内の朝鮮通運倉庫。貨物を見て回っていた駅長が、大きな箱の前で足を止めた。そして短い嘆声をあげた。

「あっ、これだ。」

少し前、国語辞典の原稿を探して自分を訪ねてきた、朝鮮語学会の人たちの焦すいした姿が頭に浮かんだ。駅長は急いで朝鮮語学会に連絡をとった。

原稿用紙2万6500枚あまり。1929年から編纂作業が進められてきた「チョソンマル クンサジョン(朝鮮語大辞典)」の原稿だった。組版作業に入った1942年、「朝鮮語学会」事件が起き、証拠物という名目で日本の警察に押収された原稿、独立を経て行方不明となった原稿だった。どこにも見当たらず、学会のメンバーを憔すいさせたその原稿が、ついに朝鮮語学会の手に戻ってきた瞬間だった。

2年後の1947年10月9日、「朝鮮語大辞典」1巻が発刊された。また、10年後の1957年、「大事典」(「朝鮮語大辞典」から「大辞典」に改称)全6巻が完刊された。初の、まともな韓国語辞典の誕生である。

1907年、初めて国文研究所を設立し、韓国語辞典の必要性を論議し始めた時から、1957年「大辞典」が完刊されるまで、ちょうど50年。万が一、ソウル駅で原稿を探し出せなかったら、我々はさらにどれほど長い歳月、韓国語辞典を待たなければならなかっただろう。

この本には、韓国語辞典編纂50年の歴史がそのままつづり込まれている。著者は圓光(ウォングァン)大国文科教授。日本占領期から独立以後まで、辞典編纂の至難な過程、韓国語を守り研究し辞典を作るのに生涯をささげた人びと、編纂過程でのさまざまな論争など、辞典編纂に関するすべてがドキュメンタリー形式で書かれている。韓国で初めて書かれた国語辞典編纂史ともいえる。

著者は、「まともな韓国語辞典が出たことによって、ハングルが完全に生まれ変わった」と強調する。だから、本のタイトルも「韓国語の誕生」と決めた。

実は、1957年以前にも、韓国語辞典はあった。しかし、すべて薄く小さな本で、韓国語をまともに集大成したものではなかった。著者は、「1957年に刊行された『大辞典』こそ、数多くの人々の努力が集大成され、民族的権威を認められた団体(朝鮮語学会、ハングル学会)によってつくられ、出版以後、他の辞典の模範となった点で、真の国語辞典」と言う。

本書を読んでいると、辞典編纂の50年史は、わが国の言葉と文化を守り抜くための民族独立、民族自尊の歴史だったことが容易に理解できる。特に、辞典編纂に心身を尽くした人びとの話は感動的だ。

日帝時代に、開城松都(ケソン・ソンド)高普の朝鮮語教師だった李常春(イ・サンチュン)。辞典の必要性を深く感じた彼は、1919年から、韓国語語彙を収集整理した。10年間集めた語彙はなんと9万余語。個人がこれほど多くの語彙を辞典用原稿に起こすのは至難のわざだ。そのため、彼は1929年、その原稿を朝鮮語辞典編纂委員会に快く寄贈した。彼の寄贈は、辞典編纂にとって決定的な力となった。当時、東亜(トンア)日報は「ハングル辞典に大きな礎」というタイトルで、この事実を大々的に報道した。1942年、朝鮮語学会事件で辞典編纂が中断されると、自ら命を絶って抵抗した申明均(シン・ミョンギュン)の生は、読者を粛然とさせる。

韓国語研究の方向を定めた李鳳雲、池錫永、李能和(イ・ボンウン、チ・ソクヨン、イ・ヌンファ)、国語学の父・周時経(チュ・シギョン)など、私たちになじみの深い国語学者たちの話、国文研究所、光文(クァンムン)会、朝鮮語学会など韓国語研究団体の話も入っている。

辞典編纂過程での各種エピソードも興味深い。1930年代の方言を集めるため、休みに故郷へ帰る学生ボランティアなどを活用したこと、表記法と綴字法についてし烈に行われた論争、これらの論争によって辞典編纂が遅れたこと、個人的に作った辞典原稿を手に入れるため編纂委員会メンバーが中国・上海などまで探しに行ったこと…。このようなエピソードは、ただおもしろいだけではない。一つ一つの逸話から、数多くの人々の流した血と汗がともに伝わってくる。



kplee@donga.com