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時には、友人のように世界を抱きしめたい 詩人ユ・ジョンイン

時には、友人のように世界を抱きしめたい 詩人ユ・ジョンイン

Posted September. 03, 2005 08:35,   

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詩人のユ・ジョンインさんは、1968年仁川(インチョン)で生まれ、今年でデビュー10年目を迎える。彼の処女詩集「惜しみ食くう悲しみ(01)」は、彼を取り囲む世界との激しい衝突と脱走を望む激情からなったものだった。新しい詩集「交友録」は、聖なるものと俗なるもの、死と生が互いの顔に、友人のように悲しく触れながら、ともに人生の道を歩んでいく成熟の風景を見せてくれる。こうした風景は、無心の森羅万象に有心の言語を付与する抒情詩の本領であり、見事に造形されている。

「手の平のサボテンには/ゴルゴタのキリストよりはるかに多い/針のような釘が刺さってある/(中略)/いや、無数の針を含んでいても/仙人の掌は自ら/手先ひとつ掻かれたり、刺されたりすることはない/影さえ残すことのない/気になる風さえ青い手を叩く音を聞こうと/神仙の手首をかけたように振るわせて過ぎて行く」(「刺」より)

刺のあるサボテンと透明な風が調和をなすこうした詩人の想像力は、一つのものと別のもの、無縁のように見られる万象が実は一つの根を持っており、つながっているという信頼と期待から出たものだ。

詩人は昔住んでいた村を訪ね、いまだに残っている険しい風景を顧みた歌「険しい村」の最後の部分で、「私の心より険しい村はない」とうたう。詩人の想像力は、この世が険しく見えるとすれば、それは私の心がそうだからだということに根を下ろしている。彼は周りを私心なく見渡す姿勢から出たユーモアと余裕を通じて、豊かで柔らかく、温かい詩を書いている。

「古びた古物屋さんのトラックの荷物スペースに/山水画の額縁一つが積まれている/かびが/雁の群れが飛ぶ空まで生えている/気になるかのように春の日差しが覗き込んでいる」(「さまよう山水画」より)

詩人の眼には、こうしたユーモラスな想像力が出入りできない空間はない。

「新築聖堂のトイレの椿木の植木鉢が/霜の立ち込めた窓の外を眺める/神様もこの世の便所でうんこをしていらっしゃるはず/水を流す音を聞く時が良かった空には/臭い後味がないから。空には/化粧紙のようにきれいな肌を持った紙も/もちろんないはず/(中略)/椿、お前であることが分かったのは、お前の花の口、いや/その赤い陰部の唇のためなんだ/全ての恥部がこの冬にもどうやってそんなにきれいに/咲けるのか」(「トイレの椿」より)

人と人の間、人と自然の間、すべてのものの関係が友人のようになれる和解の空間を夢見る詩人の心には、まだ純情なままで残っているその何かを探し求める姿がある。その姿にはもしかすると、そうした純情はこれからめぐり合うことができなかったり、結局消えてしまうであろうという悲しみが込められている。彼に成熟をもたらしてくれたその悲しみが、この詩集の最も光る部分だ。

「雪が降った/闇の中で/話せないことが飛び交った/(中略)/降る雪は友でないため/底に積もったり/道行く人々の足に踏まれるだろう/(中略)/友は、降りてくる友は/あんなに白くやるせなくたくさんであっても/全部私が汚すほかない雪だった/降らない雪が/最も純粋な、優しい雪だった/友は、死んだ友が、まだ会っていない友が/一番良い友だ」(「交友録」より)。



kkt@donga.com