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テキサス・チェーンソー

Posted June. 17, 2005 03:25,   

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リメークは原作と比較される運命を避けて通ることができない。一つ面白い点は、ホラー映画をリメークした場合、次のような批評をすればほとんど当てはまるということだ。「原作が映画史に投げかけた衝撃的な意味は色あせた。しかし、視覚効果とビジュアルは一層生々しくて恐ろしい」。この解釈は、ホラー映画の古典『テキサス電動ノコギリ大虐殺(日本公開名:悪魔のいけにえ)』(1974年)をリメークした『テキサス・チェーンソーにもそのまま適用される。

実話をベースにした原作はこうだった。観客の息の根を次第に止めていく論理的な方法の代わりに、いきなり現われた殺人鬼が電動ノコギリを持って、何の理由や動機もなく次から次へと人を切り殺していく。その突然性と無差別性は、逆説的にも社会と人生の本質を突く要素と認められた。

30年ぶりに作られたリメーク作品は、こうした不条理が減り、はるかに洗練された。だからと言って無視することもできないのは、このリメークは原作との比較がどうのこうの、映画史的な意義がどうのこうのを言う前に、取りあえず恐ろしいほど怖いからだ。

米テキサス州の田舎の道路を走っていた5人の男女は、狂ったように歩いているある女性を車に乗せることになる。その女性はいきなり拳銃を持ち出して、自分の口に向けて引き金を引く。警察に届け出るため、人通りの少ない村に入った一行は、一人ずつ命を失う。村には人をでたらめに殺して、その顔の皮をかぶって歩き回る殺人鬼「レザーフェース(leather face・皮顔)」がいた。

『テキサス・チェーンソー』はその乱暴なタイトルを忠実に履行するだけで、実は十分なのである。テキサス州の田舎に現われた殺人鬼が電動ノコギリを持って97分間、犠牲者(あるいは観客)を追いかける。それだけで十分であるのだ。「電動ノコギリの動く音が終わってくれたら」と観客がうんざりしかけた瞬間、この映画は色々な意味を離れて「良い」ホラー映画となる。

電動ノコギリを間髪の差で避け続ける主人公エリン(ジェシカ・ビエル扮)の目をくらっとさせるタンクトップ、それ以上にこのリメークで視線を引き止める要素は、テキサスという空間そのものが持つ恐怖の「質感」だ。夜を強調した原作とは違って、リメークの中の猟奇殺害行為と追撃戦はほとんど白昼の中で起きる。原作に続いて再び撮影監督を務めたダニエル・ファルのカメラは、テキサス荒野のぼやけているほこりと黄金色の土壌、照りつける太陽の中に、何か無情で不気味な、殺気に近いキャラクターを入れ込んだ。

原作は政治的・社会的解釈を生んだりもした。殺人鬼を「育てる」狂った家族は、1970年代、米国の崩壊する家族文化を喩えたものとも理解された。豚や牛と全く同じく「屠畜」される人間の姿は、地に落ちたヒューマニズムの告発とも読み取られた。

リメークは、『呪怨』、『リンク』など日本のホラー映画をリメークするハリウッドの最近の流行とは違って、極めて米国風な恐怖を経験させてくれるという点で、むしろ一味違う。ものすごく広いという事実そのものが恐怖であるテキサスの荒れ地を背景に、機械文明と開拓を象徴する道具の電動ノコギリ(一抱え木を切り取るときに使うから)を振り回す殺人鬼。純度100%の肉体的で物理的な恐怖エネルギーで、観客を崖っぷちまで追い込むこの映画は、狭い屋根裏や布団の中に現われて爪を立てる日本のホラー映画の中の幽霊とは「体級」が違うわけだ。恐怖もチョコレートのようなものなのだろうか。「メイド・イン・USA」は、取りあえず恐ろしいほど大きいのだから…。

ミュージックビデオとCFを演出してきたマーカス・ニスペル監督のデビュー作。16日封切り。18歳以上観覧可。



sjda@donga.com