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人生の重みが欠けているアクション…『崔倍達伝説』の色あせ

人生の重みが欠けているアクション…『崔倍達伝説』の色あせ

Posted August. 04, 2004 22:24,   

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バン・ハクギの卓越したマンガ『風のファイター』を原作にして作った映画だとすると、大体こうした修飾語が頭に浮びそうだ。暗い、重い、自己破壊的な、苦悩に満ちた、痛い、恐ろしい、満たしても満たしても満たされない…。

しかし不幸にも、12日に封切られる映画『風のファイター』はこうした重みのある言葉を吹き飛ばしてしまう。もうすっかり慣れている武侠活劇の文法とたまらないほど軽いラブロマンの間に、中途半端に腰をおろしている。

日帝による強制占領時代。少年崔倍達(チェ・ベダル、大山倍達)は作男のボムスからテッキョンを学びながらファイターとしての夢を育てる。しかし、独立運動にかかわったボムスが行方を暗ますと、倍達は飛行士の夢を抱えて日本へ密航する。しかし、彼を待ち受けていたのは「朝鮮人」という差別。彼は奇跡のようにボムスと再会して修練を続けるが、ボムスがヤクザの手によって殺されると、入山修練を決心する。身を粉にするようなきつい自己訓練を終えた彼は、日本各地を歩き回りながら、武術の達人たちを次から次へと倒していく、いわゆる「道場破り」を始める。

崔倍達(1922〜1994)は韓国伝統武術のテッキョンを土台にした「極真空手」という実戦武術の創始者だ。しかし、この映画は「実存した人物の実際の人生」という中心的なネタを十分生かせなかった。代わりに「馬鹿にされることに悔しい思いをしているところ、師匠の死を目撃した後、復讐の刃を研いで復讐に成功するが、再び内面の葛藤に悩まされ、結局伝説になる」という、ありふれた武侠アクション映画の手軽いコースメニューを選んでいる。この映画は崔倍達のアクションからスタイルを抜き出そうとする前に、彼の人生が持つ真実にさらに真正面から深く足を踏み入れなければならなかった。崔倍達と日本の芸者のヨウコとの愛も人生の重みともかけ離れた「鬼ごっこ」水準の初恋の話に流してしまうことで、むしろ崔倍達の人物像と正面衝突してしまう。

梁東根(ヤン・ドングン)のアクションは粗大で重みがある。破壊的だ。彼はワイヤーなど特殊効果や代役に頼らず、きびすで相手のこめかみを粉々にするほど打撃するリアリティーアクションの真髄を見せてくれる。しかし、暗さと重さの区別ができていたら、もっと良かったはずだ。

崔倍達の友だちのチュンベ役のチョン・テウはおしゃべりと大げさの中に温かい心を隠している演技で、盛り上げ役を十分果たしたが、映画を自分の一部にしようとするよりは、自分の映画の一部にしなければならない課題を抱えるようになった。師匠のボムス役のチョン・ドゥホンは前作『アラハン長風大作戦』に続いて、今回もセリフを言うたびに深刻な劇の雰囲気がいきなり軽くなってしまう現象について、悩まざるをえない立場になった。彼の殺意に満ちた目つきに比べ、与えられるセリフ(「力のない正義は無力であり、正義のない力は暴力に過ぎないんだ」のような)は笑わせるほど甘い。

この映画の製作過程には紆余曲折も多かった。製作会社が変わり、当初男女の主人公に選ばれていた歌手のビーとユミン(笛木優子)の代わりに梁東根と「ウォーターボーイズ」の日本女俳優平山綾が主演を引き受けた。「ホワイトバレンタイン」、「リベラーメ」のヤン・ユンホ監督演出。12歳以上観覧可。.



李承宰 sjda@donga.com