Go to contents

[オピニオン]宗教的神聖と表現の自由

Posted January. 17, 2015 07:13,   

한국어

イエスが生きていた当時、ユダヤ人たちがイエスの処刑を求めた理由は神聖冒涜だった。聖書によると、憤った群衆がイエスを大祭司の前に連れてきた。大祭司がイエスに尋ねた。「お前が、神様の息子のキリストか」。イエスが答えた。「私が汝らに語る。人子が全能なる者の右に座っているのと、天の雲に乗ってくるのを見るだろう」。すると、大祭司が自分の服を引き裂きながら言った。「この人が、神様を冒涜した」。

◆フランス週刊誌シャルリ・エブドのムハンマドに関する諷刺画は、イスラム圏では神聖冒涜とみなされてきた。フランシスコ法王は、「他人の宗教をあざ笑ってはならない。表現の自由にも限界がある」と話した。我々は残忍な宗教戦争の歴史をよく知っている。お互いに、異なる信仰は尊重されるべきだ。ただ、シャルリ・エブドの風刺画は、宗教が別の宗教をあざ笑ったのではなく、世俗のメディアが宗教を風刺したのだ。シャルリ・エブドは、カトリックも風刺の対象にしている。法王も宗教家であり、ほかの宗教家の気持ちを誰よりよく察しているようだ。

◆近代文化は、ある神聖なから別の神聖へと移行したものではなく、いかなる神聖も受け入れないという特徴がある。ここから、われわれが今享受している自由が芽生えた。宗教の自由から思想の自由が出ており、表現の自由が出てきた。イエスもムハンマドもあざ笑いの対象にできる精神こそ、近代言論の基盤となっている。これを拒否する人たちと戦うために手を取り合うこと、それがほかならぬ「私がシャルリだ(Je suis Charlie)」の精神だ。

◆表現の自由にも限界がある。いかなる社会であれ、人を殺すように煽動する発言は放っておかない。また、各国の歴史的経験による限界もある。欧米ではホロコーストを否定する発言は処罰を受ける。わが国でも、北朝鮮の体制を賞賛鼓舞する発言は認められない。しかし、宗教的神聖については違うと思う。近代文化は神聖冒涜的だ。批判できない絶対的、宗教的神聖が生まれる瞬間、再び前近代に戻る危険に陥りかねない。

宋平仁(ソン・ピョンイン)論説委員 pisong@donga.com