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[オピニオン]白塔派の話

Posted January. 12, 2015 07:20,   

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今、ソウルの中心に南山(ナムサン)送信塔があるが、18世紀の朝鮮には白塔があった。白塔とは、ソウル鍾路(チョンロ)3街、タプコル公園にある円覚寺址十層石塔(国宝2号)のことを言う。端宗を殺して即位した世祖は、仏教に帰依して円覚寺を創建した。その時作られた十層石塔は韓国では珍しく花こう岩ではなく大理石で作られ、白塔と呼ばれる。白塔は、高層建物がなかった朝鮮時代、漢陽(ハンヤン)の真ん中に高くそびえ、ランドマークの役割をしただろう。

◆正祖執権期の18世紀後半、商工業の発達で変化する都城の中心に集まり住み、交流した若い学者たちがいた。白塔の周辺に暮らした朴趾源(パク・チウォン)、李徳懋(イ・ドクム)、柳得恭(ユ・ドゥクコン)、徐常修(ソ・サンス)や、南山の裾野に暮らした洪大容(ホン・デヨン)、朴斎家(パク・チェガ)、白東修(ペク・ドンス)たちだ。いつも空腹で困窮したが、彼らは漢陽(ハンヤン)の南北をつなぐ水標橋を往来し、身分や年齢の壁を越え、友情を築いた。徐常修の広間で、琴の大家洪大容が琴を弾き、李徳懋が詩を詠む風景を想像してみよ。

◆彼らは、単に風流を分かち合うだけでなく、新しい目で世の中を眺め、国を変革しようとした。実学者の中で北学派とされた彼らが「白塔派」だ。200年ほど前に朝鮮の主流思想だった性理学を拒否し、「利用厚生」という観点から世の中を見ようとした「若い彼ら」に関する話が、ソウル歴史博物館「タプコルから吹く風−白塔派の話」展で繰り広げられる。

◆壬辰倭乱と丙子胡乱の被害を克服し、文化的自信が回復した時代に胎動した白塔派を真っ先に見出したのは正祖だった。新しい思潮で既得権集団の老論を牽制しようとした正祖は、奎章閣(キュジャンガク)を通じて彼らの中から多くを登用した。しかし、当時としては急進的だった彼らの思想は正祖の疑いを買うことになり、後見人の正祖まで突然に死去したため、彼らの夢は現実にはならなかった。どの時代どの社会でも変革は既得権から自由な若者が主導する。変革を夢見て挑戦し、挫折もする青年世代があるからこそ、歴史は発展する。

鄭星姫(チョン・ソンヒ)論説委員 shchung@donga.com