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「一冊の本にも花を咲かせる気持ちで」 朴孟浩・民音社会長の他界に哀悼の波

「一冊の本にも花を咲かせる気持ちで」 朴孟浩・民音社会長の他界に哀悼の波

Posted January. 23, 2017 08:43,   

Updated January. 23, 2017 08:44

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「このような本を出すべきだと、指示を受けたことなど全くない。従業員らの提案を信頼し、支持した後、その結果物については短くアドバイスをした。一緒に働きながらいつも幸せだった、頼もしい『船長』だった」

22日に死去した民音社(ミンウムサ)の朴孟浩(パク・メンホ)会長の遺体安置所が設けられたソウル大学病院の葬儀場に集まった文人たちや出版界の関係者らは、「いつになく出版界に剛直なリーダーのアドバイスが切に求められる時期なのに、『永遠な現役』だった朴会長を失くし、慌てうろたえている」と哀悼を表した。

故人は忠清北道報恩郡(チュンチョンブクド・ボウングン)の飛龍沼(ビリョンソ)村で生まれた。13歳の時まで暮らした飛龍沼は、1994年に作った民音社系列児童本のブランド名となった。

氏の若い頃の夢は小説家だった。1952年、ソウル大学フランス文学科に入学した故人は、その翌年、時事日刊紙「現代公論」の創刊記念文芸公募に「パク・ソンフム」というペンネームで、短編小説「ひまわりの習性」を応募して当選となった。 1955年は、韓国(ハングク)日報の新春文芸に短編小説「自由風俗」で応募したが、自由党政府を風刺した内容が問題となって落ちた。

その後、国会議員に出馬した父親「パク・ギジョン」氏の選挙運動を支援し、1966年5月、ソウル鍾路区清進洞(チョンノグ・チョンジンドン)にある10平方メートル余りの屋上部屋で民音社を立ち上げた。ハンギル社の金彦鎬(キム・オンホ)代表は、「毎晩、あの狭い屋上部屋が、高銀(コ・ウン)や李文烈(イ・ムンヨル)などの作家たちや同年代の出版人たちでにぎわった。鍾路書籍を見て回ってから民音社に立ち寄って、一杯飲んでいく習慣を持った人たちも少なくなかった」と振り返った。

初めて出版した本からベストセラーになった。日本人作家オカ・マサヒロが書いたインドのヨガ本を、当時の新丘(シング)文化社のシン・ドンムン主幹がハングルで移した本を発売し、1万5000冊を売った。翻訳書で鍬入れをしたものの、その後は日本書の翻訳中心だった当時の出版界の空気に従わず、優れた国内作家の文をハングルによく似合う形で紹介することに邁進した。

故人は、1970年代に高銀詩人や文学評論家だったキム・ヒョンなどと意気投合して、「世界詩人選」や「今日の詩人叢書」を出し、非人気ジャンルだった詩集出版ブームを引き起こした。金洙映(キム・スヨン)の「巨大な根」や金春洙(キム・チュンス)の「処容」、千祥炳(チョン・サンビョン)の「居酒屋で」、高銀の「復活」、朴在森(パク・ジェサム)の「千年の風」、黃東奎(ファン・ドンギュ)の「三南に降る雪」などが、この叢書を通して世界に紹介された。

この時、単行本としては初めて、横書き編集や菊版30節の版型(縦=12.5センチ、横=20.5センチ)を導入した。 2006~2014年に民音社代表を務めた編集文化実験室のチャン・ウンス代表は、「縦書きは韓国出版物に残された代表的日帝の名残だった。朴会長は韓国出版界を日本出版文化の影響から脱却させることに、誰よりも関心が高かった」と話した。

1976年には季刊文学誌「世界の文学」を創刊し、その翌年は「今日の作家賞」を制定した。1981年に制定した「金洙映文学賞」も、今まで運営されている。文学だけでなく、文芸理論や思想、学術書籍の出版にも力を入れた。 1977年から1990年代の半ばまでに発売した「イデア叢書」を通じて、ヴァルター・ベンヤミンの文芸理論などの海外優秀書籍を国内に初めて紹介した。1983~1999年には、「大宇(テウ)学術叢書」424冊を出版した。

東アジアのハン・ソンボン代表は、「会社経営にも優れていたが、出版人協会活動など、出版業界を率いる行政家の役割を担って、遠くまでを見通す鋭い洞察力をもって後輩たちのための基盤を作ってくださった」と語った。故人は、2005年、第45代出版人協会会長に選ばれ、ドイツ・フランクフルトの国際図書展で韓国主賓国行事などを成功裏に行った。

韓国出版人会議のユン・チョルホ会長は、「10日前に病院にお見舞いに行った。挙動は難しいようだったが、人を見抜く『目での対話』はそのままだった。その姿が最後だったと思うと、道を灯してくれた大きな灯りを失った気がする」と話した。



孫宅均 sohn@donga.com