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若宮啓文の夢

Posted May. 10, 2016 08:47,   

Updated May. 10, 2016 15:16

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1999年7月16日の朝、東亜(トンア)日報の東京特派員だった私は、築地の朝日新聞社別館の事務所で新聞を調べていた。すると「よかったね美穂ちゃん」というコラムが目についた。美穂という新婦の結婚式に行った記者が彼女を応援するコラムだった。手紙形式なので、初めは文才を自慢するコラムだと思った。しかしそうでなかった。

コラムを書いた記者は、26年前に長野支局に勤めた時、美穂さんの両親の結婚式を取材したことがあった。悲しい結婚式だったという。美穂さんの父親が被差別部落出身なので、結婚を猛反対した母方の家族が結婚式に姿を見せなかったのだ。被差別部落は身分的・社会的に差別された人々が暮らした地域(以前の韓国の白丁村に相当)で、そこの出身者は結婚や就職、育児などでひどい差別に耐えなければならなかった。記者は当時、このような風土をなくそうとキャンペーン記事を長期連載中だった。

コラムは、辛い過去を持つ夫妻が3人の子供は堂々と育て上げ、その結果、祝福の中、長女の結婚式を挙げることになった感動的なストーリーを丁寧な取材と温かい目で伝えた。書いた人は政治部長だった。私は本館にいる彼にすぐに電話をかけて訪ねた。そして「本当に感動的なコラムだ」と言った。「ほめてもらえて気恥ずかしい」と笑った彼との関係はそうして始まり、長く良い先輩・後輩としてつきあった。「彼」は先月28日、日中韓シンポジウムに出席するために向かった中国・北京で急死した若宮啓文(68)元朝日新聞主筆だ。

彼の死の知らせは、様々な新聞で報道された。それにより、彼が韓日関係の改善に多くの努力を傾けた「親韓派ジャーナリスト」だったことも伝えられた。早くから02年のW杯韓日共同開催を提案する社説や独島(ドクト、日本名・竹島)の韓国領有権を認めて友情の島にしようというコラムを書いたことなども。今日、再び彼について言及する理由は、読者の了解を得て、容易でない道を歩んできた一人のジャーナリストに感謝と敬意を示すためだ。

彼は韓国で「親韓派」と言われたが、日本の右翼からは「売国奴」と非難を受けた。しかし、日本側を非難したことも韓国側に恩着せがましくしたこともない。ジャーナリズムの正道を歩もうと努力したことが、結果的に韓国に友好的に映っただけだと考えた。彼が、日本と韓国いずれにも堂々としていられた理由だ。彼は鋭いが「愛情」もあきらめなかった。韓日関係を批判したことはあるが、皮肉ったことはない。それだけ長く韓日問題に関わってきたジャーナリストも珍しい。彼は1979年の訪韓後、韓日関係を生涯追求する「ライフワーク」と見なし、数冊の著作を通じて初心を立証した。

私は、彼を常にユーモアを失わず、新しい形式で文を書くことに悩んだ先輩だと記憶したい。彼は、韓国で開かれたあるシンポジウムで、「独島には竹がないのになぜ日本は竹島と呼ぶのか」という質問を受けると、「独島は2つの島なのになぜ独島と言うのか」と問い返し、爆笑が誘った。2010年から東亜日報に連載された彼のコラム「若宮の東京小考」66編には、小説体や対話体、寓話体など形式破壊で関心を引いた文も多い。彼は、文の形式も非常に重視したロマンチストだった。

彼が北京に発つ2日前、ソウル北村(プクチョン)のある知人夫妻の韓国式家屋で夕食を共にしたのが最後の出会いだった。その席で、知人夫妻は、母屋の隣の離れを彼がソウルに来れば泊まれるように無料で提供すると言った。彼は申し訳なさそうにしながらも感謝した。その時、離れに名前を付けようという話になった。「韓日関係をより良くする夢を始める家」という意味で「夢」と「斎」はすぐに決まった。しかし、「始める」という意味で「啓」を入れて「啓夢斎」にするか「開」を使って「開夢斎」にするかで「論争」になった。若宮氏は自分の名前が入っている「啓夢斎」もまんざらでない様子だった。しかし、韓国人は断固として「啓」は上が下を教えるという権威主義的なにおいがすると言って、「開夢斎」に決めてしまった。

若宮先輩、知人夫妻はあなたにした提案を取りやめず、日本人学者やジャーナリストにその離れを提供すると言っています。それで、離れの名前を変えようと思います。「啓夢斎」に。なぜかって?ただそうしたいからです。もう重い荷物は後輩に任せて、ゆっくりお休みください…。

 

沈揆先 シム・ギュソン 大記者 ksshim@donga.com