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[オピニオン]敦義門の復元

Posted December. 11, 2012 08:56,   

Updated January. 01, 1970 09:00

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朝鮮(チョソン)の首都・漢陽(ハンヤン)は、朝鮮開国の功臣である鄭道傳(チョン・ドジョン)の陰陽五行説によって設計された計画都市だった。朝鮮建国の思想的基盤である儒教の理念や仁義禮智信の陰陽五行思想は、漢陽の城郭にもよく現れている。漢陽城郭の出入り口である興仁門(フンインムン)や敦義門(トンイムン)、崇禮門(スンレムン)にそれぞれ、仁義禮の文字が書かれている。鐘を吊るための楼閣のである普信閣には「信」の文字が含まれている。興仁門や敦義門、崇禮門に北門の肅靖門(スクジョンムン)を入れたのが4大門だ。

◆漢陽都城の西大門は、敦義門だ。鄭道傳が名づけた敦義門は、文字通り「義」の実践に力を入れるという意味だ。1396年(太祖5年)、現在の社稷(サジク)トンネル周辺に建設されたが、1422年(世宗4年)、鍾路区(チョンノグ)・新門路(シンムンロ)2丁目に移された。壬辰倭亂(文禄の役)の時、宣祖(ソンジョ)が日本軍を避け、宜州(イジュ)に避難するために離れる時も、この門を利用した。壬辰倭亂の時に焼かれたが、1711年(肅宗37年)再建され、日本植民地時代の1915年、日本帝国による電車の複線化をうけ撤去された。

◆朝鮮王朝実録によると、元々敦義門のあったところは、開国功臣の李叔蕃(イ・スクボン)の邸宅前だった。しかし、李叔蕃は、定宗(チョンジョン)が居住していた仁鄹宮(インドクグン=現在の大統領府付近)前の小さな渓谷がふさわしい場所だと主張し、場所を変更させた。李叔蕃は、自宅前に庶民や馬車が往来する門を構えたくはなかっただろう。個人の利害関係のため、公共事業の場所が変更となった事例だ。李叔蕃は、権力を過信し、傍若無人に振る舞い、流されたところで最期を迎えた。それでも庶民らは、敦義門を「新門」と呼びながら便利に利用し、今日の新門路という名称もここから由来している。

◆ユネスコが、漢陽都城を世界文化遺産に暫定リストに登録させたことをきっかけに、4大門のうち唯一に復元していない敦義門を再び建設する問題をめぐり、議論がなされている。暫定リストにあがれば、1年後に正式に登録申請資格が与えられ、世界文化遺産に登録される可能性が高い。漢陽都城は、山の上に築いた山城と平地の平城とが調和をなしており、600年首都の歴史や庶民の息吹が生きている空間となっている。08年、火災で焼失された崇禮門に続き、敦義門まで復元すれば、4大門を全て整備することになり、漢陽都城の文化遺産の価値が高まることになる。敦義門復元を前提に、積極的な検討が求められる。

鄭星姫(チョン・ソンヒ)論説委員 shchung@donga.com